相良長隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

相良 長隆(さがら ながたか、明応元年(1492年[1])- 大永6年5月16日1526年[1]6月25日))は、相良氏第13代当主・相良長毎の次男。母は長倉氏の娘。第16代当主・相良義滋の弟にして第14代当主・相良長祗の庶兄。

略歴

10歳のときに出家して瑞賢と号し[1]京都東福寺で僧籍に入って修行した[1]

永正年間に帰国し、観音寺第12代住職となる[1]。大永4年(1524年)、弟の長祗が相良長定に攻められて翌年に自害すると[1]、大永6年(1526年)に長定を諭して兄の義滋に人吉城を明け渡させんとして、立興寺の亮海なる僧を遣わしたが聞き届けられなかった。已む無く僧兵200余人をかき集めたが、そこで心変わりして自ら長定を討つと決心、観音寺に火を放って同年5月11日、人吉城に攻め入り長定を破った[1]。還俗して太郎長隆と名乗り相良氏の家督を継ごうとしたが、僧籍にありながら寺院を焼いた事、またその炎が願成寺の金堂に延焼する被害を出していた事が災いし、長隆に対して相良一族や家臣団は従おうとしなかった[1]。長隆は正式に家督を継ぐこともできず人吉城から逃亡、落合加賀守を頼って永里城へと入った[1]

その後、長隆を速やかに討つべきであるとの周囲の声に兄・義滋も腰を上げ、当初協力する姿勢を見せなかった一族の実力者上村頼興から、頼興の嫡子である頼重(後の相良晴広)を養嗣子とする事を条件にその後援を取り付けると、義滋は永里城へと攻めかかった。長隆は城下の上村金蔵院に逃れてそこへ火を放ち、廊下の竹縁に出ると腹を十文字に掻き切り自害して果てた[1]享年35。

脚注

注釈

引用元

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 1.9 阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P362

参考文献