百済寺

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テンプレート:Otheruseslist テンプレート:日本の寺院 百済寺(ひゃくさいじ)は、滋賀県東近江市にある天台宗の寺院。山号を釈迦山と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は聖徳太子とされる。金剛輪寺西明寺とともに「湖東三山」の1つとして知られる。

歴史

琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する。寺伝によれば、推古天皇14年(606年)、聖徳太子の建立という。聖徳太子は当時来朝していた高麗(高句麗)の僧・恵慈とともにこの地に至った時、山中に不思議な光を見た。その光の元を訪ねて行くと、それは霊木の杉であった。太子はその杉を、根が付いた立ち木のまま刻んで十一面観音の像を作り、像を囲むように堂を建てた。これが百済寺の始まりであるといい、百済の龍雲寺にならって寺を建てたので百済寺と号したという。百済寺の史料上の初見は11世紀の寛治3年(1089年)であり、聖徳太子創建との伝承がどこまで史実を反映したものかは不明であるが、百済寺という寺号から見て、この寺は渡来系氏族の氏寺として開創された可能性が高い。平安時代には、近江国の多くの寺院と同様、比叡山延暦寺の勢力下に入り、天台宗の寺院となっている。

平安時代から中世にかけて、かなりの規模をもった寺院だったようだが、明応7年(1498年)の火災で全焼し、その数年後の文亀3年(1503年)の兵火でも焼け、この2回の火災で創建以来の建物ばかりでなく、仏像、寺宝、記録類なども大方焼けてしまった。さらに天正元年(1573年)には織田信長の焼き討ちに遭い、またも全焼している。当時、この地に勢力をもっていた佐々木氏の一族六角氏は、観音寺城の支城である鯰江城(なまずえじょう)を百済寺の近くに築いていた。信長は自分と敵対していた佐々木氏に味方するものとして、百済寺を焼き討ちした。本堂をはじめ現在の建物は近世以降の再興である。

境内

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百済寺仁王門に続く石段

山門(赤門)を入り参道を進むと途中左側に本坊の喜見院があり、そこから石段を上ったところに仁王門、さらに上ったところに本堂が建つ。喜見院はかつては仁王門下の右方にあったが、昭和15年(1940年)に現在地に移転している。参道両側には石垣を築いた僧坊跡があり、かつては多くの建物が軒をつらねていた。境内は国の史跡に指定されている。

本堂は、入母屋造、檜皮(ひわだ)葺き。江戸時代初期、慶安3年(1650年)の再興である。中世以来の密教仏堂の形式を残しつつ細部には近世的特質の現われた建築で、2004年に重要文化財に指定されている。元来の本堂は現在地の裏手にあり、規模も大きかった。また、旧本堂の右方(南)には五重塔が建っていた。

文化財

重要文化財
  • 百済寺本堂
  • 絹本着色日吉山王曼荼羅図
  • 黒漆蒔絵箱(紺紙金泥法華経入り)
  • 金銅唐草文磬
  • 鈸子・銅鑼(ばっし、どら)
史跡
  • 百済寺境内

参考文献

  • 井上靖塚本善隆監修、岡部伊都子、濱中光哲、濱中光永、北角良澄ほか著 『古寺巡礼近江6 湖東三山』、淡交社、1980年。
  • 『日本歴史地名大系 滋賀県の地名』、平凡社。
  • 『角川日本地名大辞典 滋賀県』、角川書店。
  • 『国史大辞典』、吉川弘文館。

関連項目

外部リンク

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