白起

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白 起(はく き、? - 紀元前257年11月)は、中国・戦国時代末期のの武将。公孫起[1]とも表記される。秦国郿県(現在の陝西省眉県)の出身。昭襄王に仕え、各地を転戦してなどの軍に数々の勝利を収め、秦の領土拡大に貢献した。

経歴

以下は『史記』白起・王翦列伝による。

紀元前294年、左庶長に任ぜられ、の新城を攻めた。紀元前293年、左更にすすみ、韓・を攻め、テンプレート:仮リンクで24万を斬首した。また、韓将公孫喜を捕え、5城を落とした。紀元前292年、魏を攻め、大小61城を落とした。紀元前278年を攻め、テンプレート:仮リンクで楚の首都を落とした。このため、楚は陳に遷都した。同年、武安君の称を賜っている。紀元前273年、魏の華陽を攻め、テンプレート:仮リンクで韓・魏・の将軍を捕え、13万を斬首した。同年、趙将賈偃と戦い、その士卒2万を黄河に沈めた。紀元前264年、韓の陘城を攻め、テンプレート:仮リンクで5城を落とし、5万を斬首した。紀元前260年長平の戦いでは、巧みな用兵で趙括率いる趙軍を兵糧攻めに追い込み大勝した。このとき40万余りに及ぶ捕虜の兵糧が賄えず、反乱の恐れがあるとして少年兵240人を除く全てを生き埋めにした。[2]

しかし、本国にあった宰相・范雎が、長平の戦いでの白起の活躍を自らの地位を脅かすものであるとして警戒し、さらに趙の首都邯鄲に攻め込もうとする白起を押しとどめ、わずかな条件で趙と和議を結んだ。紀元前259年、秦は、王陵を起用して邯鄲を包囲し、翌紀元前258年には増派もして、さらに指揮官を王齕に交代させたが、趙の援軍として現れた魏の信陵君・楚の春申君に大敗北を喫した。この危機を打開するために白起に出兵するよう命令が下るが、白起は一連の范雎の行動に不信感を抱き、病と称して出仕を拒んだ。これがさらに立場を悪くし、紀元前257年、ついに昭襄王によって自害させられた。 自害の直前、白起はこのように自問した。「我に何の罪あるか? なぜ自害せねばならぬか?」と。しばらく考えて、「我は固より死ぬべきだ。長平の戦いにおいて降伏兵40万余りを一夜で生き埋めにした。それでも罪にならないのか? 天に対し罪を犯したのだ」と感嘆した。 秦の民衆は彼の死を哀れみ、各地に廟を建てて祀ったという。

評価

司馬遷は、『史記』において、白起を「料敵合変、出奇無窮、声震天下(敵の能力を図って作戦を変え、奇策を無限に繰り出した。彼の勢威は天下を震わせた)」と評している。一方で、その伝の末尾に「非常に有能な将軍であったが、(身内であるはずの)范雎の患いから逃れることができなかった」と記し、王翦と共に優れた人物でありながら、欠点もあった人物であったと評価する。のち、三国・の将軍鄧艾が讒言をうけて殺される前に、自らを白起になぞらえて身の危機を悟ったとの記述が『三国志』にある。

脚注

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  1. 戦国策』「趙策」の巻十八趙一、巻二十趙三による。
  2. 『史記』の捕虜の生き埋めに関する記述は誇大なものであると長年とらえられてきたが、1995年5月の長平の古戦場における発掘調査でそれと思われる人骨が大量に出土し、多くの研究者を驚かせた。