信陵君

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信陵君(しんりょうくん、? - 紀元前244年)は、中国戦国時代公子であり、政治家軍人。三代昭王の末子。無忌戦国四君の一人。大国によって圧迫を受けた魏を支え、諸国をまとめ上げ秦を攻めるも、兄王に疑われて憂死した。

兄が安釐王として立つと、封ぜられて信陵君と名乗る。信陵君は多種多様な客を多数集めて自分の手元においており、その数は三千人を超えた。

略歴

魏の公子と食客

ある時、安釐王と囲碁双六との説もある)を打っていた所、との国境から烽火が上がり、安釐王は趙の侵攻かと思い慌てたが、信陵君は落ち着いて「趙王が狩をしているだけのことです」と言った。安釐王が確かめさせると果たしてその通りであった。信陵君は食客を通じて趙国内にも情報網を張り巡らしていたので、趙の侵攻ではないと分かっていたのだが、これ以後の安釐王は信陵君の力を恐れて、国政に関わらせようとはしなくなった。

そうしているある日、信陵君は門番をしている侯嬴が賢人と聞き、食客になって貰おうと自ら出向き贈り物をした。しかし侯嬴は「私はもう70にもなり、老体で人に仕えることは出来ません」と断った。信陵君は「ならば4日後に宴席がありますので、先生も来て下さい」と言って、それは侯嬴も承諾した。その4日後、信陵君は宴席を設けたが、侯嬴が居なかったため、自ら招くべく馬車に乗って街へと出向いた。侯嬴は自分が行っても信陵君の恥になりますと一度断った後、信陵君に勧められ馬車に乗ったが、上席に断りもなく座った。そして途中で止めて欲しいと言って馬車を降り、肉屋である朱亥と世間話を始めた。その間、信陵君は嫌な顔もせず待っていた。そして宴席で信陵君は侯嬴を上席へと座らせた。他の大臣などの客は、汚らしい老人を信陵君自ら招きいれ、しかも上席にしたことに驚いた。そして侯嬴に「世間話など、いつでも出来るのではないですか」と聞いた。

侯嬴は「あれは大切にしてくださる、信陵君への恩返しなのです」と答えた。全く訳が解らなかった客が再び問うと、「信陵君をどうでもいい用事で待たせるなど、なんと失礼な爺だと皆は蔑みました。一方、それでも待った信陵君の器量に感動しました。これは噂となって、国中どころか他国にも伝わり、信陵君の名声が大いに高まるでしょう。だから恩返しなのです」と答えた。客らは納得し、宴席も大いに盛り上がった。

侯嬴は信陵君に朱亥を推挙し迎えたが、朱亥は礼をしなかったという。

ある日、魏王の寵愛する姫の父が殺された。魏王を始めとした廻りの人に敵討ちを頼むものの、誰も相手にしなかった。しかし信陵君は頼まれるや、自らの客を使って犯人を見つけ出し、仇を討った。

秦の宰相・范雎に恨みを買っていたため、首を狙われて趙の平原君の元に逃れていた魏の元宰相・魏斉が、秦から趙への圧力が高まるに及んで、信陵君を頼り帰国しようとした。信陵君は災いを恐れしばらく迷ったが、食客の一言を聞き、受け入れることにした。しかしその間に魏斉は自刎していたため、この首を塩漬けにして趙へ送った。

趙への援軍

紀元前258年長平の戦いにて趙軍を大破した秦軍が、趙の首都邯鄲を包囲した。安釐王は趙の救援要請に対して援軍を出すことは出したが、そこで秦から「最早、趙の滅亡は時間の問題。もし援軍すれば次は魏を攻める」と脅されたため、援軍を国境に留めおいて実際に戦わせようとはしなかった。信陵君の姉は平原君の妻になっていたので信陵君に対して姉を見殺しにするのかとの詰問が何度も来た。信陵君はこれと、趙が敗れれば魏も遠からず敗れることを察していたため、安釐王に対して趙を救援するように言ったが受け入れられず、しかし見捨てることも出来ぬと信陵君は自分の食客数百名を率いて自ら救援に行こうとした。

この時、侯嬴は見送りの群衆の中に居たが、素っ気なかった。信陵君は自分が死地に向かうのに何だろうか、と態度が気になり、一人引返した。それを侯嬴は「やはり戻ってこられましたな」と迎えて、二人だけで人気の無い所に移った。そこで「あなたの手勢だけでは少数すぎて犬死となるだけで、国軍を動かすべきです。王の手元から軍に命令を下すための割符を盗み、将軍の晋鄙がこれを疑ったならば、朱亥に将軍を殺させ軍の指揮権を奪いなさい。魏王の寵愛する姫は信陵君に恩があるため、割符を手に入れることに協力するでしょう」と説いた。 信陵君はこれを聞いて涙した。「(この策は上手くいくだろうが)晋鄙将軍は慎重な性格なので、割符を見ても自ら確認するだろう。そうなれば何も悪くないのに殺さざるを得ない」と悲しんだためである。

しかし断じてこれに従い割符を手に入れ、朱亥の所へ向かった。朱亥は「今まで貴方へ礼を言わなかったのは、その恩義に対して答えにならないと思っていたからです。貴方が苦しい状況にある今こそ、命を懸けて報いさせて頂きます」と答えた。 そして国境の城に出向き、軍を率いていた晋鄙将軍に交代するよう言ったが、晋鄙はやはり確認のための伝令を出すと言ったため、やむなく朱亥が40斤の金槌で晋鄙を命令違反として撲殺し、丁重に埋葬した。なお、これに前後して侯嬴は信陵君がいる方向へ、自らの命を手向けとするべく自刎した。 信陵君はまず、兵が魏に戻れないことも考え「親子で従軍しているものは親を帰す。兄弟では兄を帰す。一人っ子ならば帰って孝行をせよ」と命令。そうして残った兵を率いて趙の危機を救う。この時の指揮も見事なもので、秦軍は信陵君によって負けさせられたといっても良い程である。しかし、勝手に軍を動かしたことで安釐王の大きな怒りを買うと解っていたので、信陵君は「私には罪があるが、軍の皆は命令に従っただけだから罪は無い」と軍は魏に帰し、自分と食客は趙に留まった。趙は救国の士として歓待し、5城を献上しようとして信陵君もそれに応じようとした。だが、食客に「あなたは王命を偽り晋鄙将軍を殺し功を立てたのだから、趙からの報償を受け取るべきではないでしょう」と言われ、幾度も勧られても固辞した。

趙に滞在中、信陵君は博徒の間に隠れていた毛公と味噌屋に身を隠していた薛公に、会って話がしたいと使者を出したが断られた。すると自ら徒歩で彼らのもとへ趣き、両者と語り合って大いに満足した。しかし平原君はこの事を聞いて「信陵君はそのような者を相手にするのか」と馬鹿にした。これに対して信陵君は「その博徒と味噌屋は魏に居た時から賢人と聞いていた程の人で、出向いても会っていただけないのではと思っていました。世情の煩わしさを嫌い、その身分に自らあるだけ。平原君は外面だけを飾り立てる虚名の士のようだ」と喝破し、このような人の近くには居たくないと国外へ去ろうとした。これを聞いた平原君は、信陵君が居るから趙は秦に攻められていないこともあり、去られては大変と冠を脱いで謝罪した。これを聞いた平原君の食客達は「信陵君は身分に関係なく才を処遇してくださる。そういう人に使ってもらいたい」と、その内半数が平原君の下を去って信陵君の下に集まったと言う。

帰国

紀元前248年、信陵君のいない魏は連年のように秦に攻められ、窮した安釐王は信陵君に帰国するように手紙を出した。信陵君は疑って帰ろうとしなかったが、毛公と薛公に「今日の貴方があるのは魏のお陰であり、その恩を忘れこの危機を見て見ぬ振りをするのは不義です」と諌められて魏へ帰国する。翌年、安釐王と信陵君はお互いに涙して再会した。信陵君は魏の上将軍に就任し、諸国にそれを知らせると、諸国は一斉に魏へ援軍を送った。そして五ヶ国の軍をまとめて秦の蒙驁蒙恬の祖父)を破った。趙・魏はもとより他の国も指揮権を委ねた辺り、信陵君の手腕と名声に他国からも信頼が厚かったことが伺える。そして連合軍はついに函谷関に攻め寄せて秦の兵を抑えた。これにより信陵君の威名は天下に知れ渡った。客が信陵君に献上した兵法は『魏公子兵法』と呼ばれた。

失脚

函谷関にまで攻め寄せられた秦は窮地に陥り、また信陵君がいる限りは魏を攻められないと考え、信陵君に殺された晋鄙将軍の下にいた食客を集め、信陵君が王位を奪おうとしているとの噂を流させた。これにより安釐王は再び信陵君を疑って遠ざけるようになり、鬱々とした信陵君は酒びたりになり、紀元前244年に過度の飲酒のために死去した。なお、子孫の滅亡についての記述が無いのは、戦国四君でも信陵君だけである。

死後

その後、秦からの侵攻を防ぎ得ずに次々と城を失った魏は、紀元前225年に滅亡する。

なお、信陵君が抱えた食客の中には、のちにの功臣の一人である張耳も含まれていた。

また前漢の初代皇帝である劉邦からも尊敬されており、大梁を通るたびに信陵君の祭祀を行った劉邦は、信陵君の墓守として5家にその役目を与えた。

参考文献

  • 史記』巻77魏公子列伝