白河口の戦い

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白河小峰城
戦争戊辰戦争
年月日
旧暦慶応4年閏4月20日 - 7月14日
グレゴリオ暦1868年6月10日 - 8月31日
場所磐城国白河郡白河城(旧陸奥国南東部)
結果新政府軍の白河城占領
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 25x20px 新政府軍
東山道先鋒総督府
25x20px 奥羽越列藩同盟
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 25x20px 伊地知正治
(総督府参謀)
25x20px 板垣退助
(総督府参謀)
25x20px 西郷頼母
(白河口総督)
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 約700、のち約1,500(板垣退助到着後) 約4,500以上
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白河口の戦い(しらかわぐちのたたかい)は、戊辰戦争における戦いの1つ。戊辰戦争の戦局に大きな影響を与えた。

慶応4年4月から7月(1868年6月から8月)にかけて、南東北の要地白河城をめぐる、奥羽越列藩同盟側(仙台藩会津藩旧幕府歩兵隊米沢藩棚倉藩など)と新政府軍(薩摩藩長州藩大垣藩忍藩)との戦い。列藩同盟側には名義上同盟には加わらなかった会津藩や旧幕府歩兵も参加しているが、これ以降それらの勢力も含めて列藩同盟軍と記す。仙台藩・米沢藩などを主力とした列藩同盟軍は、会津藩・庄内藩と提携し新政府と敵対する軍事同盟成立に際し白河城を攻撃し、新政府軍から白河城を奪い取った。ここに戊辰戦争の東北地域での戦闘・東北戦争が勃発した。しかし新政府軍は約700名程度で列藩同盟側約2500名の駐屯していた白河城を奪還した。同盟軍は白河を経由した関東への進軍を意図し約4500名まで増援を行い7回にわたって攻撃したが、新政府軍は劣勢な兵数で白河城を守りきった。

背景

白河奥州街道沿いの要地であった。ここは白河藩の領地に当たるのだが、慶応2年(1866年)に藩主が転封され二本松藩預かりの地となっていて藩主不在の状態であった。白河小峰城1627年丹羽長重によって改築された城で、仙台藩をはじめとする東北諸藩を仮想敵として設計されていたため、南方は比較的手薄となっていた。

慶応4年閏4月20日(1868年6月10日)、二本松藩兵が守備していた白河城へ田中玄清(田中土佐)の息子の田中左内率いる会津兵と新選組が侵攻しこれを占領した。会津藩遊撃隊長遠山伊右衛門と新選組土方歳三が負傷により戦列を離れていたため山口二郎(斎藤一)が指揮)を白坂口に配置、棚倉口には純義隊長小池周吾 原方街道には青龍隊長鈴木作右衛門を配置。朱雀隊長の日向茂太郎らは米村にいた。

参謀伊地知正治、部隊長野津鎮雄川村純義の率いる新政府東山道軍は宇都宮城の戦いに勝利し、宇都宮を拠点として確保していた。新政府軍は薩摩藩兵を中心とし、大垣藩兵、長州藩兵、忍藩兵で形成されていた。新政府軍は宇都宮から大田原まで進軍していたが、会津による白河城占拠を知った江戸からの指令で、そのまま白河へと前進した。25日払暁に新政府軍の先遣隊数百名は白坂口へ奇襲をかけて、会津藩遊撃隊と新選組は新政府軍と激しく交戦をした。この戦いを知った朱雀隊長の日向茂太郎が側面から樋口砲兵と共に新政府軍を攻撃した。ここで新政府軍は浮足立った。さらにそれに続いて棚倉口には純義隊長小池周吾 原方街道には青龍隊長 鈴木作右衛門がそして集義隊の今泉と井口らが海側から側面を叩いた。この両側からの激しい攻撃に政府軍も敗走せざるを得なかった。新政府軍は長雨でぬかるんだ田地に足をとられ、宇都宮城の戦いでの死闘による疲労と弾薬不足そして宇都宮からの無理な強行軍の疲労そして土地勘の無さも重なり損害を出して芦野へ撤退した。

翌26日に白河口総督として会津藩家老西郷頼母が、副総督として同若年寄横山主税が白河城に入城した。また、仙台藩、棚倉藩、二本松藩の増援部隊も到着した。山口二郎や純義隊の宮川六郎らは白坂口の防衛を献策したが、西郷頼母は「兵力で勝っており不要である」として却下したものの、やはり白坂口や棚倉口にも兵を配備した。そして山口二郎や純義隊を白河口に配置し本陣を守った。さらに会津藩家老西郷頼母は白河城南に位置する稲荷山に兵を重点に置き主力部隊と砲兵を置いた。新政府軍は宇都宮城の土佐藩兵に協力を仰ぎたいところだったが、土佐藩は今市の戦いの最中であった。そこで東山道軍に伊地知正治率いる薩摩藩と長州藩と大垣藩と忍藩の部隊を合流させ増員した。兵力は新政府軍が約700名、列藩同盟軍が2,000から2,500名であった。新政府軍は28日に激しい銃撃戦を展開させて会津兵を撃退させて29日に白坂口に本陣を置き、5月1日に白河城の攻略にかかった。

経過

新政府軍の白河城攻略

5月1日、新政府軍は兵力を3つに分け、本隊は伊地知が率い少数の囮部隊として中央から進軍、野津と川村が指揮する2部隊は左右へ迂回して列藩同盟軍を包囲、退路を断ちつつ進軍し白河城を攻略する作戦をとった。左右の迂回部隊がまず先発し、時間差をつけ遅れて本体が進軍、小丸山を占拠した。新政府軍本隊は、多数の旗を掲げて大軍と見せかけ、列藩同盟軍が布陣していた白河城南に位置する稲荷山(現在の九番町西裏 - 稲荷公園)に砲撃して注意と兵力を引きつけた。この際、稲荷山に激励に赴いた列藩同盟軍副総督の横山主税が銃撃され戦死した。西郷頼母は稲荷山へ白河城と他の方面から戦力を逐次投入し、新政府軍本隊へ攻撃をしかけた。

こうして手薄になった立石山と雷神山へ、新政府軍別動の2部隊が侵攻して占拠した。これにより新政府軍は稲荷山を包囲する形となり山上から銃撃を加え、さらに兵力を展開して城下へと突入し白河城を占領した。同盟軍は横山主税をはじめ幹部多数を失い、約700名の死傷者を出したが、新政府軍の死傷者は20名前後と伝えられ、新政府軍の圧勝に終わった。

列藩同盟軍の反撃

この頃新政府軍は関東を完全に制圧できていなかったため、白河城へ増援する余裕が無く、黒川藩によってわずかに兵力を増強できたに過ぎなかった。一方、列藩同盟軍も連携が悪く兵力の集結や総攻撃の決断ができずに、5月16日から17日に小規模の攻撃を行った程度であった。こういった状況の中、仙台藩士細谷直英(十太夫)は、須賀川で奥州の大親分を含む東北地方の侠客・博徒・農民などを糾合して「衝撃隊」を結成し、黒装束に身を包んで長脇差で夜襲攻撃を繰り返した。衝撃隊は新政府軍から「鴉組(からすぐみ)」と呼ばれて恐れられた。

5月26日、列藩同盟軍はようやく兵力の再集結を終え、約2,000の兵力をもって白河城へ総攻撃をかけた。雨中であり両軍とも小銃の着火に手間取ったが、特に列藩同盟軍では旧式の小銃が多く戦力の大きな低下を招いた。列藩同盟軍はさらに27日、28日と連続して攻撃をかけたが、新政府軍はこれを撃退した。6月に入ると、新政府軍は5月6日の今市の戦いや5月15日の上野戦争での勝利によって関東から旧幕府勢力を駆逐できたため戦力に余力が生じ、板垣退助率いる土佐藩兵や江戸の薩摩藩兵が白河城へ増援された。列藩同盟軍は6月12日にも白河城へ攻撃を仕掛けたが失敗に終わった。

戦闘終結

(詳しくは磐城の戦い及び二本松の戦い参照)

6月16日、平潟に新政府軍1500名が上陸した。その後も上陸は続き7月中旬には3000の兵を擁するようになった。6月24日、平潟の上陸軍に呼応し白河から板垣退助率いる新政府軍が棚倉城攻略のため800の兵を率いて出発した。棚倉藩は白河と平潟の中間に位置し両新政府軍が提携するために確保する必要があったからである。新政府軍の動きを列藩同盟軍は予期していたが、むしろ白河城奪取の好機と見て白河へ兵力を集結させ、棚倉藩への増援は行われなかった。棚倉城はその日のうちに落城して棚倉藩は降伏した。6月25日、列藩同盟軍は予定通り白河城へ攻撃をかけたが失敗に終わった。さらに7月1日の攻撃にも失敗し、7月2日、西郷頼母が総督を罷免され、後任として内藤介右衛門がその任に就いた。

7月8日、庄内藩は白河口救援のため大隊を派遣したが、その途上で秋田藩および新庄藩などが奥羽越列藩同盟から離反したとの報が入ったため、派遣を取りやめ同部隊を新庄藩攻撃の任にあてた。

7月13日、平潟の上陸軍は平城を占領し、以後軍を再び2つに分け海岸沿い及び内陸へ進軍を開始し、三春にて板垣退助の白河軍と合流した。

列藩同盟軍の白河城への攻撃は7月14日が最後となった。以降、周辺地域で戦闘が続いたが、白河より北の中通り浜通りが新政府軍の支配下となったため、これに狼狽した列藩同盟軍は会津藩領を経由し白河周辺から撤退し、白河口の戦いは終結した。

影響

7月28日、29日に新政府軍は本宮へと進軍し、列藩同盟軍は迎撃にあたったが打ち破られて敗走した。また27日に本宮の陥落で進退窮まった三春藩が新政府へ降伏し、これにより29日に新政府軍の別働隊が二本松城を攻撃した。二本松藩兵の多くが白河口へ出兵していたこともあり二本松城は落城した(二本松の戦い)。

白河口の戦いで新政府軍を率いた伊地知正治は、兵力劣勢ながら果敢な指揮をもって戦いを優勢に進めた。一方列藩同盟軍はリーダーシップを欠き、当初持っていた優勢な兵力を生かしきれずいたずらに損害を重ねた。 白河から列藩同盟軍を南下させることによって関東地域の旧幕府勢力との協同・関東地域からの新政府軍の駆逐を目指した列藩同盟の意図は、白河城を新政府が確保し続け、関東地域の騒乱が新政府によって収拾されることによって挫折した。逆に板垣退助の白河軍及び平潟から上陸した新政府軍の中通り・浜通りへの進軍によってこの地域の列藩同盟軍は雲散霧消し、新政府は仙台藩と会津藩を直接攻撃できる態勢が整った。 白河口での敗北によって列藩同盟軍は勝機を失い、東北戦争の大勢は決した。

外部リンク