甲子園競輪場

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ファイル:甲子園競輪場があった場所.JPG
かつて甲子園競輪場だった分譲マンション(左側)。道路右側歩道にある屋根の部分が、かつて運行されていた甲子園駅ゆき無料送迎バス乗り場。トラックが停まっているその奥辺りが、かつての正門の位置。歩道にある小さな出っ張りがモニュメント。
ファイル:甲子園競輪場モニュメント.JPG
甲子園競輪場のマスコットキャラクター「キックル君」のマークが入ったモニュメント

甲子園競輪場(こうしえんけいりんじょう)は、かつて、兵庫県西宮市南甲子園にあった競輪場である。競輪開催のために造られた施設だが、ほんの一時期だけ、オートレースが開催されたこともある。

概要

西宮市などが中心となり、前年阪急西宮球場に特設した競輪バンクで開催した西宮競輪場に次ぐ兵庫県二番目の競輪場として、阪神甲子園球場より浜手に向かってやや離れた場所に「鳴尾競輪場」として建設された。後に1951年に「甲子園競輪場」に改称、晩年に至る。

施設の管理は甲子園土地企業(元大証上場企業、現在は解散)が行い、施行者である兵庫県市町競輪事務組合(それまでは兵庫県、西宮市、尼崎市などが単独で開催)が施設を借用する形で開催していた。

しかし、競輪事務組合は赤字を理由に平成13年に甲子園競輪を廃止し、甲子園土地企業は解散に追い込まれた。同社は、それまでの多額の設備投資の賠償を求めて裁判を起こしたが勝訴に至らず、平成21年に清算結了した。

  • 甲子園土地企業は競輪場東側に自動車学校を併設して運営を行い、競輪開催日はこの自動車学校内の施設も有料駐車場として開放[1]し、また阪神甲子園球場でのプロ野球、高校野球などイベント開催日にも有料駐車場として開放していた。駐車代は、1日1台1000円であった。この自動車学校も同時に閉校することになった。

開設当初は周長500mのバンクであったが、その後1964年に周長400mのバンクに改修され、晩年まで使用された(後述)。

  • 400mバンクとしての最大カントは28°-00′-33″であった。

甲子園駅から徒歩10分程度の距離であり、駅から歩いて向かう人も多かったが、1973年7月から廃止まで、開催日には甲子園駅から阪神電鉄バスによる無料送迎バスが運行されていた。

また、夕方には阪神電鉄が甲子園駅に特急を臨時停車(当時の特急は夜間のみ停車)させて利用客の便宜を図っていた。

かつては尼崎市交通局のバス路線が、1986年の路線改編前まで甲子園競輪場前に乗り入れていた。また、甲子園競輪場の廃止に伴い、兵庫県道342号甲子園六湛寺線(臨港線)上にあった「競輪場前」バス停は、「南甲子園一丁目」に改称された。

競輪開催日の入場料は1人50円(場外発売日は無料)。場内の特別観覧席の入場料は、改築された北側(バックスタンド)が1人1500円(場外発売日は1000円)、南側(ゴール前)は改築されず古いまま残されていた[2]ため1人1000円(場外発売日は閉鎖)であった。

  • 冬季には入場者に使い捨てカイロが配布された。このほか、時に先着入場者にタオルなど粗品を進呈したり、開設記念競輪などでは先着入場者におたのしみくじを配布して抽選で景品をプレゼントしていた。
  • 防寒対策で、冬季のみ北側バックスタンド1階に防風壁を設置して発売窓口の周辺を保温していた。

開設記念競輪(現在のGIII)として甲子園ゴールデン杯が開催されていた。

投票が機械化されてからは、オッズ表示は場内でのモニターでなされていたが、締切5分前でオッズ表示を終了していた(晩年は締切直前まで表示)。また、投票に関しては、基本的にお釣りは出さなかったため、両替機などであらかじめ両替の上、窓口でちょうどの金額を支払うようになっていた(晩年はお釣りを出した)。

  • 発売窓口では直前のレースのみの発売で、前売に関しては専用窓口(北側スタンド1階西側)で対応していたが、晩年は全窓口で全レースを買えるようにしていた(ただしレース発走中は発売休止)。
  • 甲子園競輪場では早朝前売発売は実施せず、甲子園競輪開催日(甲子園競輪場での場外発売日も含む)は西宮競輪場の専用窓口で7時30分から11時25分の間で発売していた。
  • 単勝・複勝は3コーナーにあった西側スタンド下の専用窓口のみ対応。ただ、売り上げはごくわずかだったこともあり、車番連勝式車券の導入時にともに発売自体が廃止された。

投票窓口は有人であったが、払戻窓口は晩年自動化された。なお、非開催日の払い戻しは西宮競輪場で行っていた。

アストロビジョンを活用した大型映像装置があった西宮競輪場とは異なり、最後まで場内に大型映像装置が設置されることはなかった。ただ、1999年オールスター競輪開催期間中に限り、2コーナーと4コーナーに大型映像装置が臨時で設置された。

予想専門紙は、「競輪ダービー」と「競輪研究」が(晩年は1部410円で)販売されていた。ここ甲子園競輪場と西宮競輪場での特徴として、立ち売りの女性販売員が新品とは別に、早々と帰る客から1部50円程度で買い取り、それを150〜200円で「中古」としてよく販売していた。

マスコットキャラクターは、を擬人化した「キックル君」(甲子園の頭文字Kから)であった。ちなみに、西宮競輪場のマスコットキャラクターは、キックル君を反転させややデザインを変えた「ニックル君」(西宮の頭文字Nから)であった。

競輪選手用の宿舎には、天然温泉を引いた入浴施設が存在した。

非開催日には有料駐車場としての開放以外に、1990年代後半まで、以下のような形で施設を一般開放し有効活用していた。

  • バンク内の芝生を活用したパターゴルフ場(1ラウンド800円、1992年 - )。
  • 地下の車検場のスペースを活用した卓球場(1時間50円)。
  • 敷地の一角にあったテニスコートの開放(1時間200円)。
なお、午前中は競輪選手が練習に使用するため、基本的に午後からの営業であった。

前史

日本には1939年の大宮双輪場開設まで専用競走路を持った自転車競技場は存在しておらず、運動場を陸上競技等と共用していた。南甲子園に所在していた甲子園南運動場も陸上競技とフットボール[3]を兼用する競技場であったが、戦前の自転車競技界では全日本選手権他ビッグイベントの大半が行われる聖地[4]と位置付けられていた。

当時の競走路は陸上競技と共用する周長500mのトラックであり、カントはない。1940年皇紀2600年を迎えたことを記念し、阪神電気鉄道により陸上競技用トラックの外側に、表面をコンクリートで固めたバンクも備わった幅員6m、周長600mの自転車競技用トラックが設置されたが、太平洋戦争中に川西航空機鳴尾工場の飛行場建設のため、用地が軍に接収され、その幕を閉じた。

ただし、設置されていたのは後の甲子園競輪場から南南東へ約400mの位置であり設置者も異なり、直接の関係はない。現在はUR都市機構の浜甲子園団地となっている。

歴史・年表

戦後、小倉競輪場や大阪競輪場での競輪開催が大成功したことを受けて、兵庫県下でも新たに競輪場が建設されることになった。

1949年6月、鳴尾競輪場として500mバンクで開設。同年6月28日に兵庫県営第1回鳴尾競輪が開催され、ここに甲子園競輪場の歴史が刻まれていくこととなる。開設当初の入場料は20円であった。

  • 開設当初はバンク内に池があったが、400mバンクに改修された頃には廃止されている[5]

競輪創成期は観客が競輪の競技特性をよく理解していなかったことや、実力不足の選手も多く見られたことから全国各地の競輪場で暴動や騒乱事件が発生していたが、この甲子園競輪場でも、鳴尾競輪場時代の1950年9月9日、競輪史に最大の汚点を残した鳴尾事件が発生。それまで「キョウリン」と呼ばれていた[6]競輪が、この鳴尾事件以後、「恐輪」とか「狂輪」と揶揄されるようになったため、「ケイリン」と呼び改められるようになったきっかけを作った事件でもあった。

その後、鳴尾事件を受けて競輪は暫く開催を(全国的に)休止し、鳴尾競輪場も当然に廃止は必至と言われたが、1951年1月に甲子園競輪場と名称を改めることで決着、のちレースを再開することとなる。

1955年8月、オートレースが開催される。

1956年8月7日、特別観覧席が焼失。

1964年10月、バンクを改修。3・4コーナーをゴール前に寄せて400mバンクとなる。

1965年7月、西側スタンドを新築。

1967年8月、東側スタンドを新築。

1968年1月、南側スタンドを新築。

1969年8月、特別競輪「オールスター競輪」が開催直前で中止となる。

1973年7月、阪神甲子園駅との間で無料送迎バスを運行開始。

1976年4月、入場料が50円に値上げされる。

1981年、車券のコイン専用自動券売機が登場。ただ後に投票が機械化されたことで、これは後に撤去される。

1984年5月、国際競輪を開催。

1985年、開設記念競輪(現在のGIIIレース)を初めて開催。

1985年12月、マスコットキャラクター「キックル君」誕生。

1986年12月、西日本初の電話投票が西宮競輪場とともに始まる。

1989年6月、電光決定表示盤を設置。

1991年3月、投票の機械化。マルチユニット方式となる。

1991年4月、北側スタンドを改築、オープン。

1992年4月、北側スタンドにロイヤルルームがオープン。

1995年1月17日阪神・淡路大震災発生。この影響でバンク内にひびが入るなどの被害を受け、同年3月末まで開催が休止される。

(時期不明)西宮競輪とともに、投票用マークカードを導入。当時は単勝式・複勝式・枠番連勝式のみであった。

1996年5月、車番連勝式車券の発売を開始。

1999年9月23日 - 9月29日、開設以来初めての特別競輪(現在のGI)「オールスター競輪」を開催。本来は9月28日が決勝戦(当時は6日間開催)であったが、台風直撃による開催休止があり(9月24日)、1日順延となった。

だが、競輪の収益は1990年代中盤から頭打ちとなり、年々減少の一途で、ついに収支が赤字転落の危機を迎え、一時は廃止が噂され大騒ぎとなるが、存続に方針転換する。収支改善のため、西宮競輪場ではそれまでなかった特別観覧席の新設、一部発売窓口を閉鎖、組合員(競輪場の従業員)を全員解雇のち再雇用するなど、収支改善に努めたがそれでも好転せず、最終的に施設を抱えていた西宮市市長の山田知(当時)が撤退を決断する。後に主催者の兵庫県市町競輪事務組合が、財政難を理由に競輪事業からの撤退を正式に表明し、2002年3月の開催を最後に西宮競輪とともに廃止されることとなった。

2002年3月19日、甲子園競輪開催最終日。この日を以って甲子園競輪は廃止された。最終レース終了後、兵庫県市町競輪事務組合による挨拶のあと、地元選手がバンクからレース用ユニフォームをスタンドに投げ込んだ。

閉鎖後も施設自体は暫く残り、競輪選手の練習場として、また阪神甲子園球場でのイベント開催時には臨時駐車場として活用された。その後2002年末頃に完全に閉鎖され、競輪場・自動車学校跡地は複数の不動産会社に売却された後、大規模分譲マンションや分譲戸建が建設され、現在に至っている。

甲子園競輪場と特別競輪・開設記念競輪

甲子園競輪場は、甲子園駅から離れた、元々周囲が田圃だらけの現地に開設された。だが、結局は競輪場周辺まで宅地化の波が押し寄せ、住宅が密集したことから周辺住民との軋轢がたびたび起こるようになった。

特に鳴尾事件の爪痕は非常に大きく、それが永きにわたり開設記念競輪でさえ開催できない状況を作ってしまっていた。

1969年に予定されていた特別競輪「全国都道府県選抜競輪」(現在の読売新聞社杯全日本選抜競輪の前身)の開催に際しては周辺住民から「競輪公害だ」として開催反対の住民運動が起こり、大会直前になって中止されるハプニングが起こった。以降1985年まで、他場では必ず行われている開設記念競輪すらも開催されることはなかった。

また1988年にはKEIRINグランプリを関東以外で初めて開催することも一旦は決定しながら、やはり周辺住民の騒音対策や警備・施設面で不安が残るという理由で立川競輪場に会場変更された、という経緯もあり、なかなか特別競輪とは縁遠かった。

その後、北側スタンド改築に併せて特別観覧席を設置するなど施設の改善を図り、周辺住民の理解も得られたことから、1999年には待望の特別競輪・第42回オールスター競輪の開催にこぎつけた(優勝者は神山雄一郎)。この開催では台風接近で決勝戦が1日延期された関係で、決勝戦のテレビ中継は当初予定のテレビ東京系列であるテレビ大阪では行われず、地元サンテレビが発走直前の16時30分から16時50分の20分だけ中継した。

脚注

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参考文献

  • 競輪三十年史
  • 競輪四十年史
  • 競輪五十年史
いずれも日本自転車振興会発行

関連項目

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  1. 自動車学校は学科教習か路上教習のみ行っていた。
  2. 北側の特別観覧席は冷暖房完備で白色のテーブルが付いた2人掛け席が並び、テレビモニターも天井から吊り下げる形で設置されていた一方で、南側の特別観覧席は駅にあるようなプラスチック製の椅子が横一列に並べられていただけであった。ただ、HS(ホームストレッチ。ゴール線)は南側にあったため、ゴールの瞬間を間近で見たいファンはこちらに流れていた。
  3. サッカー、ラグビー
  4. 1932年7月5日朝9時から『全日本自転車競走大会』の開催を告知するポスターが現存する。当時の入場料は70であった。
  5. バンク内に池があるのは、現在でも中部地方の競輪場に多く見受けられる。
  6. 甲子園競輪場内に設けられていた資料コーナーに、鳴尾競輪の開催告知で「きょうりん」とふりがなを付けていた新聞のコピーのパネルが貼られていた。「きょうりん」→「けいりん」についてはこちらも参照。