田中耕一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox Scientist

ノーベル賞受賞者 ノーベル賞
受賞年:2002年
受賞部門:ノーベル化学賞
受賞理由:生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発

田中 耕一(たなか こういち、1959年(昭和34年)8月3日 - )は、日本化学者エンジニア東北大学名誉博士

ソフトレーザーによる質量分析技術の開発で文化功労者文化勲章ノーベル化学賞を受賞。受賞以降も、血液一滴で病気の早期発見ができる技術の実用化に向けて活躍中である。

株式会社島津製作所シニアフェロー、田中耕一記念質量分析研究所所長、田中最先端研究所所長。東京大学医科学研究所客員教授日本学士院会員等にも就任している。

来歴・人物

幼少期~学生時代

1959年(昭和34年)に富山県富山市に生まれる。出生1ヵ月で実母が病死したため叔父の家で育てられる。その後、叔父の家に養子として迎えられるテンプレート:Sfn。兄弟は兄2人と姉がいる。富山市立八人町小学校(現・富山市立芝園小学校)において、4~6年次の担任である澤柿教誠から将来の基礎を育む理科教育を受けるテンプレート:Sfn

東北大学工学部へ進学する。入学時に取り寄せた戸籍抄本で自身が養子であることを知り、そのショックも手伝い教養課程在学時に単位を落として1年間の留年生活を送るテンプレート:Sfn。しかし前倒しで専門の勉強に励んだため、卒業時は学科で上位1割の成績になっていたテンプレート:Sfn。指導教授は安達三郎博士(現・東北大学名誉教授)で、電磁波アンテナ工学を専攻した。大学卒業後は大学院へ進学せずソニーの入社試験を受けるも不合格。最初の面接失敗後に相談した安達の勧めで、京都島津製作所の入社試験を受け合格する。

島津製作所時代

島津製作所入社後は技術研究本部中央研究所に配属され化学分野の技術研究に従事する。1985年(昭和60年)にたんぱく質などの質量分析を行う「ソフトレーザー脱着法」を開発。この研究開発が後のノーベル化学賞受賞に繋がる。20回以上の見合いの後テンプレート:Sfn、1995年テンプレート:要出典に富山の同じ高校出身の女性テンプレート:Sfn見合い結婚する[注 1]英国クレイトスグループ、島津リサーチラボ出向を経て、2002年(平成14年)に島津製作所ライフサイエンス研究所主任。

2002年(平成14年)ノーベル化学賞受賞。受賞理由は「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」。同年文化勲章受章、文化功労者となる。富山県名誉県民京都市名誉市民名誉博士東北大学)などの称号も贈られている。受賞当時は島津製作所に勤める会社員であり、現役サラリーマン初のノーベル賞受賞として日本国内で大きな話題となった。その後、同社のフェロー、田中耕一記念質量分析研究所所長に就任。

ノーベル賞受賞後の活躍

ノーベル賞受賞後は多くの講演やインタビューに答え、著書も出版した。日本学士院会員や京都大学等の客員教授等にも就任。研究開発の経緯やエンジニアとしての持論を語り、多くの人々に影響を与えた。

2009年からFIRSTプログラム「次世代質量分析システム開発と創薬・診断への貢献」に採択され、中心研究者として活躍。2013年の講演では「血液1滴から病気を早期発見できるようにするのが、私の実現可能な夢だ」と語っている[1]2011年には島津製作所の田中最先端研究所所長も兼任し、2013年には同社シニアフェローとなる。

レーザーイオン化質量分析技術

概要と経緯

タンパク質質量分析にかける場合、タンパク質を気化させ、かつイオン化させる必要がある。しかし、タンパク質は気化しにくい物質であるため、イオン化の際は高エネルギーが必要である。しかし、高エネルギーをかけるとタンパク質は気化ではなく分解してしまうため、特に高分子量のタンパク質をイオン化することは困難であった。

そこで、グリセロールコバルトの混合物(マトリックス)を熱エネルギー緩衝材として使用したところ[注 2]レーザーによりタンパク質を気化、検出することに世界で初めて成功した。「レーザーイオン化質量分析計用試料作成方法」は、1985年(昭和60年)に特許申請された。

現在、生命科学分野で広く利用されている「MALDI-TOF MS」は、田中らの発表とほぼ同時期にドイツ人化学者 (Hillenkamp、Karas) により発表された方法である。MALDI-TOF MS は、低分子化合物をマトリックスとして用いる点が田中らの方法と異なるが、より高感度にタンパク質を解析することができる。

評価とノーベル賞受賞

上記の功績が評価され、彼の開発した方法を「ソフトレーザー脱離イオン化法」として、ノーベル化学賞2002年に受賞する。貢献度は4分の1であった。

  • John B. Fenn(Prize share: 1/4)「for their development of soft desorption ionisation methods for mass spectrometric analyses of biological macromolecules」テンプレート:Sfn
  • Koichi Tanaka(Prize share: 1/4)「for their development of soft desorption ionisation methods for mass spectrometric analyses of biological macromolecules」テンプレート:Sfn
  • Kurt Wüthrich(Prize share: 1/2)「for his development of nuclear magnetic resonance spectroscopy for determining the three-dimensional structure of biological macromolecules in solution」テンプレート:Sfn

なお、ノーベル賞受賞決定にあたり、何故フランツ・ヒーレンカンプ(Franz Hillenkamp)やミヒャエル・カラス(Michael Karasではないかという疑問の声があがり、田中自身も自分が受賞するのを信じられなかった原因にあげているテンプレート:Sfn。経緯として、英語論文発表はヒーレンカンプとカラスが早かったが、二人はそれ以前に田中が日本で行った学会発表を参考にしたと書いてあったため、田中の貢献が先と認められたテンプレート:Sfn

血液一滴で病気を早期発見する技術

原理や技術の概要

体内では、侵入した抗原(蛋白質)と結合して抗体(免疫物質)が作られる。抗体はY字形をしており、2本の腕のうち1本で抗体と結合する。この構造を人工的に改変し、根本部分にポリエチレングリコールという弾力性を有する高分子化合物を挿入した。抗体の腕はこれをバネのようにして動き、2本同時に抗原と結合できるようにした。アルツハイマー病に関係する蛋白質の断片に対して実験したところ、通常の交代より100倍以上強力に抗原をつかまえることができた[2]

その後、糖鎖の状態を簡単に分析できるようになり、ペプチドを選別することなくごく微量の混合物の状態から糖鎖の状態を調べられるようになる[3]。1mlの血液からアルツハイマー病の原因となる蛋白質を検出することに成功。未知の関連物質を8種類見つけることにもつながったテンプレート:Sfn[1]。この技術はアルツハイマー病や前立腺がん等、様々な病気の早期発見に貢献することが期待されている[3]

研究開発の経過

2002年にノーベル賞を受賞したが、当初の技術は医療に役立つには感度が十分ではなかったテンプレート:Sfn2009年からFIRSTプログラム「次世代質量分析システム開発と創薬・診断への貢献」テンプレート:Sfnに採択され、5年間で約40億円の研究費を得て実用化に向けて大きく動き出した。約60人の体制で研究開発に取り組み、1年程で画期的な分析手法を開発、感度を最高1万倍にまで高めることに成功したテンプレート:Sfn

2011年11月の取材では「病気の早期診断や、抗体を用いた薬開発に結びつく技術」と答え、成果を2011年11月11日には日本学士院発行の英文ジャーナルの電子版に発表[2]2012年8月23日には、田中が客員教授が務める東京大学医科学研究所教授の清木元治らと、米科学誌プロス・ワンに発表した[3]

2014年には血液からアルツハイマー病の原因物質を検出できる段階に達しておりテンプレート:Sfn[1]2014年4月からは、新たな態勢で実用化を目指しているテンプレート:Sfn

ノーベル賞受賞の影響

受賞に伴う騒動と余波

会社で電話により受賞の報が伝えられたとき、「Nobel」「Congratulation」という単語を聞きながらも似たような海外の賞と思ったり、同僚による「びっくり」(ドッキリカメラの意)と思っていたりしていたテンプレート:Sfn。その後会社の隔離室に移動させられ、午後9時から報道陣が大挙して押し寄せた会見に臨むことになった。急な話だったので、背広の用意もヒゲを剃ることもできなかったテンプレート:Sfn。なお、普段から白髪を染めていたが[4]、受賞発表の1週間程前に床屋で染め直していたテンプレート:Sfn

田中は鉄道好きで、電車(京福電鉄嵐山線(嵐電))の運転席を眺めながら通勤することを日課としていたがテンプレート:Sfn、その晩は家に帰れず、タクシーでホテルに向かったテンプレート:Sfn。受賞を実感したのは翌日の新聞で自分の顔を見てからと語っているテンプレート:Sfn。また、ノーベル賞受賞後の上京時には、島津製作所からの出張費の関係で乗車できなかった500系新幹線グリーン車に乗れて嬉しいと記者団に答えたテンプレート:Sfn

多くの講演やインタビューを受け、研究や技術者としてのあり方について自身の経験と持論を語ったテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。内閣府の総合科学技術会議にも参加し、日本の科学政策に影響を与える存在にまでなっている。なお、ノーベル賞の授賞式の後は単独でマスメディアに出ることはほとんどなかったが、2010年(平成22年)10月6日鈴木章根岸英一のノーベル化学賞受賞が決まった際には勤務先で会見に応じ、発表の生中継を見ていたことを明かした上で、「受賞から8年経ち、次々と受賞者が出てきて、私自身、肩の荷を下ろすことができるのかと思う」と述べた[5][6]

田中耕一とマスメディア

田中耕一の七三分けの髪型に作業服という外見、一介のサラリーマンでお見合い結婚という経歴、穏やかで朴訥とした言動(ノーベル賞受賞の会見も落ち着くという理由で島津製作所の作業服で行った)は非常に多くの日本人の共感を呼び、連日連夜、マスメディア関係者が田中を追いかけ、インタビューをする。ワイドショーも騒ぐ。まるで芸能人の様な扱いを受け、「いいひと」と大衆からの人気を得る。なお、NHK から、この年の紅白歌合戦に審査員として出演依頼されたが、「私は芸能人でも博士でもありません。」と辞退している[7]

当時国内外ともに明るいニュースが無かったため、田中の功績は大々的に取り上げられ、職人気質で物欲・出世欲・金銭欲が無い謙虚な人間性も皇室、財界、政界、学界、マスメディア、一般人など非常に広い世界で好意的に受け止められる。温厚な人柄で「善人の代名詞」とまでマスメディアは持ち上げたが、連日連夜の記者の追いかけと、一人歩きする聖人のようなイメージに悩んだと打ち明けているテンプレート:Sfn

青色発光ダイオードの製法についての中村修二日亜化学工業の訴訟については、田中耕一が引き合いに出されて、中村修二は貪欲であるという非難がなされたが、これについて田中耕一は、「自分の発明は会社の売り上げにあまり貢献しなかった」と状況が全く違うとして、中村修二を擁護する発言をしているテンプレート:要出典。なお、島津製作所からの特許報酬自体は1万円程度であったが、実際は売上や技術貢献に対する社内表彰があり、数10万円相当の報酬を受けていたテンプレート:Sfn

履歴

略歴
大学客員教授
外部委員など
名誉称号
受賞・栄典

著作

著書
主な解説
主な論文
主な特許
  • 特許1769145(特許出願 昭60-183298、特許公開 昭62-043562、特許公告 平04-050982)発明者:吉田多見男、田中耕一、出願日:1985年8月21日[9]

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

注釈

テンプレート:Reflist

出典

テンプレート:Reflist

参考文献

関連項目

外部リンク

所属機関
- テンプレート:Cite web
- テンプレート:Cite web
研究関連(血液一滴で病気を早期発見)
- テンプレート:Cite web
- テンプレート:Cite web
ノーベル賞関連

テンプレート:日本人のノーベル賞受賞者 テンプレート:ノーベル化学賞受賞者 (2001年-2025年)


引用エラー: 「注」という名前のグループの <ref> タグがありますが、対応する <references group="注"/> タグが見つからない、または閉じる </ref> タグがありません
  1. 1.0 1.1 1.2 テンプレート:Cite news
  2. 2.0 2.1 テンプレート:Cite news
  3. 3.0 3.1 3.2 テンプレート:Cite news
  4. 婦人公論、2002年11月22日号
  5. 時事通信2010年10月6日]テンプレート:リンク切れ
  6. ノーベル賞受賞の2人を歴代受賞者が祝福 - 日テレNEWs24(2010年10月7日)
  7. テンプレート:Cite web
  8. 8.0 8.1 8.2 8.3 8.4 http://www.first-ms3d.jp/message/tanaka/247.html
  9. テンプレート:Cite report