生田川

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
ファイル:Ikutagawa94.JPG
生田川 百龍嬉水
ファイル:Ikutagawa72.JPG
生田川公園 連翼亭

生田川(いくたがわ)は、兵庫県神戸市を流れる二級水系本流

地理

六甲山系の摩耶山北側の兵庫県神戸市灘区六甲山町付近に源を発し南流。大阪湾神戸港に注ぐ。

元々は現在のフラワーロードの位置を流れていた。天井川となっていたことで、この両岸それぞれで集落が形成され、異なる文化が形成されてきた。神戸市が誕生する前には、西側が須磨まで「八部郡」、東側が現在の芦屋市まで「菟原郡」と区分されていたとおり、当時の生田川は、広域集落の境界をなすものであった。現在もなお、フラワーロードの東西で、街の雰囲気は異なる。ちなみに、1980年(昭和55年)に区域再編がなされて神戸市中央区となる以前の行政区は、フラワーロードより東側が葺合区、西側が生田区であった。

天井川かつ流域が平地であるがゆえに、水害が発生するとその被害は広範囲にわたる大きなものとなっていた。幕末の開国で、京都に近い港として神戸(当時の「神戸」は、現在の神戸市中央区のフラワーロード以西、生田裔神八社の点在するエリアを指した。同じく明治時代に付け替え工事のなされる前の旧湊川が「神戸」の西の境で、その西が「兵庫」であった。)の開港が決まったが、開港にあわせて整備することとされたが外国人居留地(神戸外国人居留地)が、その位置から、生田川の災害が発生した場合に大きな被害となることが予想された。早急なる神戸の開港・神戸外国人居留地の整備が求められたことが追い風となり、加納宗七が現在の位置に生田川を付け替える工事をし、1871年に完了した。そのため現在の生田川を新生田川と呼ぶこともある。

旧生田川の河川敷は加納宗七に払い下げられ、これが同地域の地名「加納町」の由来になっている。なお、加納町歩道橋の一角には、ここにもとの生田川があったことを示す石碑が建てられている。さらに、この付け替え工事が終わり、天井川たる旧生田川が消えたことで、以後、神戸の市街地は、明治時代のうちに、それまでは田畑や林が広範囲を占めていた東側の旧菟原郡部へ急速に拡大していった。特に、旧菟原郡のなかで、もともとの「神戸」のあった旧八部郡にもっとも近い葺合村は、1889年に神戸市が誕生した当初から神戸市となっている。

上流には布引の滝や、神戸ウォーターの採取地があり、山陽新幹線新神戸駅がまたいでいる。 河川敷にある生田川公園は桜の名所になっている。

生田川に公園ができたのは、生田川の付け替えの際ではなく、昭和に入り生田川を暗渠化したときである。生田川の暗渠化は市街地部分のほぼすべてについて行われ、1932年に完成、この真上に道路や公園(布引遊歩道)を整備した。当時、神戸市は、市街地の交通機能改良などの目的で各地で河川の暗渠化を政策的に実施しており、鯉川宇治川など、生田川に限ったことではなかった。しかし、1938年阪神大水害をもたらした大雨で流されてきた巨岩や巨木が生田川の暗渠の付け根に詰まり、行き場を失った泥水は旧生田川であるフラワーロードに濁流、周辺街区一帯に大きな被害をもたらした。この教訓から生田川の暗渠については撤去され、戦後になってから河岸に公園を再整備したものが今日の生田川公園である。また、同じく戦後に、六甲山系の北側と神戸市街地とを結ぶ新神戸トンネルの出入口が生田川河岸に整備され、生田川公園も数次変化してきたとともに、生田川両岸は交通の要衝にもなりつつある。

流域の自治体

兵庫県
神戸市灘区北区中央区

文学の中の生田川

生田川の名前は平安時代に編纂された大和物語に見られる。物語の中では2人の男が1人の女をめぐって争い、これに悩んだ女が「すみわびぬ わが身なげてむ 津の国の 生田の川は 名のみなりけり」と詠んで生田川に入水自殺するという話が登場する。これはもともと万葉集に登場する菟原処女(うないおとめ)の伝説をモチーフにしたものであるが、万葉集では生田川の地名は登場しない。 また明治43(1910)年には森鴎外が大和物語をもとにした戯曲「生田川」を発表している。

関連項目


外部リンク

テンプレート:River-stub