王将戦
王将戦(おうしょうせん)は、スポーツニッポン新聞社及び毎日新聞社主催の将棋の棋戦。毎年1月から3月にかけて行われる。7つのタイトル戦のひとつで、王将戦七番勝負の勝者は王将となる。1950年度創設、1951年度にタイトル戦に格上げされた。
目次
方式
一次予選・二次予選・挑戦者決定リーグによって挑戦者を決定する。挑戦者は王将と七番勝負を戦い、先に4勝した棋士が新たな王将となる。
持ち時間は、一次予選及び二次予選が3時間、挑戦者決定リーグが4時間、王将戦七番勝負が2日制(封じ手採用)の8時間。
一次予選
シード者と二次予選から出場する棋士を除く、順位戦B級1組以下の棋士によりトーナメント形式で行われる。各組のトーナメント勝者が二次予選に進む。予選通過枠は毎年異なる。
二次予選
一次予選通過者と、二次予選から出場する棋士(前期挑戦者決定リーグ陥落者(2次予選2回戦からの参加)、タイトル保持者、順位戦A級の棋士及び永世称号者)の計18人によりトーナメント形式で行われる。3人が挑戦者決定リーグに進む。
挑戦者決定リーグ
二次予選通過者3人とシード者(前期挑戦者決定リーグ残留者と王将戦敗者)4人の計7人で、総当たりのリーグ戦を行う。成績最上位者が複数出た場合は、原則シード順位で上位の2人によるプレーオフが行われる。成績上位者4人が、次年度の王将戦の挑戦者決定リーグのシード権を得る。勝ち星が並んだ場合は前期挑戦者決定リーグ残留者の順位が優先される。二次予選通過者同士で勝ち星が並んだ場合はリーグ残留の場合は翌年は同順位[1]、4位で並んだ場合は残留者決定プレーオフが行われる[2]。
王将戦七番勝負
王将と挑戦者が七番勝負を戦う。七番勝負は全国各地の旅館や料亭などで催される。
過去の形式
- 王将戦七番勝負の持ち時間は、第1期から第17期までは10時間、第18期から第40期までは9時間。
- 二次予選参加者は第30期までは16人で、4人が挑戦者決定リーグに進む。挑戦者決定リーグ参加者は二次予選通過者4人+シード4人の8人。
永世称号など
永世王将
永世称号である「永世王将」は、王将位を通算10期以上保持した棋士に与えられる。2007年3月現在、永世王将は大山康晴、永世王将の資格を持つ棋士は羽生善治。大山は1973年、王将失冠(無冠)により、特例的に現役で永世王将を名乗っている。
贈王将
関根金次郎13世名人と激戦を繰り返したことで知られる阪田(坂田)三吉は、『王将』というタイトルで数多くの舞台や映画、歌のモデルになったが、没後の昭和30年(1955年)に日本将棋連盟により「名人位」とともに「王将位」を追贈されている。
エピソード
王将戦は、将棋史における代表的なエピソードが生まれている棋戦でもある。
- 王将戦は、発足当初に「指し込み制」が適用されていて、升田幸三による陣屋事件や「名人に香車を引いて」などの舞台となった(後述)。
- 1993年度の第43期の第5局(1994年2月)は青森県三沢市で行われたが、対局者や副立会人を乗せた飛行機が天候不良によって三沢空港に着陸できず羽田空港へ引き返したために2日制が時間的に不可能になってしまい、持ち時間各5時間の1日制で行われた。
- 1994年度(1995年)の七番勝負では、羽生善治の七冠独占を谷川浩司がフルセットの末に阻止した。谷川は七番勝負の途中に阪神・淡路大震災で被災していた。
- 1995年度(1996年)は、羽生が4勝0敗ストレートで谷川から奪取し、ついに七冠独占を達成した。
- 1994年度の羽生の挑戦後、羽生は2009年度(2010年)まで16年連続で七番勝負に登場した(挑戦者として4回、王将として12回)。2009年度(2010年)に羽生が久保利明に敗れて失冠し、2010年度の挑戦者決定リーグで羽生が3勝3敗の3位に終わった(1位は豊島将之)ことで連続が途切れた。
- 上記の2010年度の挑戦者となった豊島将之は、王将戦挑戦者の最年少記録を更新(20歳)。同時に、全タイトル戦を通じて初の平成生まれの挑戦者となった。
歴代七番勝負
年の表示は、七番勝負が決着した年を表す。1月から3月にかけて七番勝負が実施されるため、年度は1年ずれる(ただし、初期の頃は12月に七番勝負が開始されることが多かった)。
*は指し込みを示す。○●は被挑戦者から見た勝敗、千は千日手。網掛けの対局者が勝者。
第2期のみ被挑戦者が前年度の王将ではない(後述の被挑戦者決定戦を参照)。
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過去の制度
指し込み制[3]
創設当初の七番勝負では「三番手直り」の指し込み制を採用した。これは、3勝差がついた時点で王将戦の勝負が決定し、次の対局から香落ちと平手戦で交互に指し(半香落ちの手合割)、必ず第7局まで実施するシステムである。
創設当時、将棋連盟内では升田幸三を筆頭に、名人が指し込まれる可能性があると慎重論があったが、最終的に主催側の提案通りに施行する事となった。これは、「名人が指し込まれることはあり得ない」と当時の名人である木村義雄自身が発言したことによるものであったとされる。
皮肉なことに、1951年度の第1期王将戦で、升田八段(当時)が木村王将・名人を4勝1敗で指し込むこととなった。升田は香落ち戦となる第6局の対局を拒否し、事態を重く見た連盟から一時は1年間の対局禁止の裁定も下された(直後に取り消される)。この「陣屋事件」は将棋界のみならず、世間の大きな注目を集めた。さらに1955年度の第5期王将戦では升田が大山康晴王将・名人に対し3勝0敗で指し込みを果たすと、1956年1月19日・20日の第4局で香落ちの升田が大山名人に勝ち、「名人が香を引かれて負ける」事態が起こった。なお、升田は続く第5局(平手番)でも勝ち対戦成績を5勝0敗とするが、体調を崩し対局に耐えられなくなったために第6・7局は中止となった。
また実際に起こることは無かったものの、一方の棋士が最初に3連勝した後に4連敗した場合でも最初に3連勝した段階で勝負が決定しているため、4連敗の中に香落ち戦が含まれるとはいえ、負け越した棋士が七番勝負の勝者となる可能性があった。
指し込み制は、1959年度の第9期から香落ち戦を1局だけ指すようになった。1965年度の第15期からは四番手直りに改められ、またどちらかが4勝した時点で対戦が終了することになったため、香落ち戦が指されることはなくなった。
しかし、死文化しているものの、王将戦の指し込み制そのものは現在も規則に残っている。つまり、王将戦で4勝差がつくと実際に香落ち戦が指されることはないものの、「指し込み」は記録される。
被挑戦者決定戦
創設当初は名人は挑戦者決定戦に参加せず、かわりに前年度の王将と「被挑戦者決定戦」三番勝負を行うこととなっていた。この制度は1953年度の第3期までで廃止され、第4期以降は名人も挑戦者決定戦に参加するようになった。