照屋林助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

照屋 林助(てるや りんすけ、1929年4月4日 - 2005年3月10日)は、音楽家漫談家。戦後の沖縄県の娯楽・芸能をリードした、沖縄ポップカルチャーの第一人者。「テルリン」の愛称で親しまれた。息子はりんけんバンドのリーダー・照屋林賢で、孫にガレッジセールゴリ、姪孫にモデル知花くららがいる。

野村流琉球音楽研究家・照屋林山の息子として大阪に生まれる。1936年、7歳の時に家族とともに父の故郷・沖縄県に移住。16歳時にアメリカ軍の捕虜となった。

琉球音楽研究家で、のちに「沖縄のチャプリン」とも呼ばれた小那覇舞天に強い影響を受ける。終戦直後、石川市(現在のうるま市)に設けられた難民収容所で悲しむ人々の間で、舞天とともに「生き残ったことをお祝いしよう」と歌を歌いながら呼びかけた。また、舞天とふたりで、村々を巡って芸を演じた。

その後も三線を用いた漫談・ボードビルショーを続け、1955年には初のレコードを発売。1957年に前川守康と「ワタブーショー」(「ワタブー」は「大腹」=デブの意)を結成。パロディーや歌謡、洋楽などを盛り込んだ、可笑しくも含蓄の深い漫談で長年に渡って活躍。その芸風は後進の沖縄芸能・ミュージックシーンに多大な影響を与えた。テレビ・ラジオ番組になどでも精力的に活動し、人気を博す。

父がコザ市(現在の沖縄市)に開業していた三味線店を利用して、エレキ三線、四線、二首三線などを考案した。

1966年高倉健主演の映画網走番外地 南国の対決』に神谷義武、森田豊一、吉之浦朝治といった沖縄芝居の役者と共に出演し、アラカンこと嵐寛寿郎が振り回す釣り竿の針に鼻の穴を引っかけられて、痛がるチンピラ役を演じた。

1971年~1977年には自宅で民宿を経営。1981年には自宅二階を改造して「てるりんはうす」というライブハウスにした。

1985年1989年には高嶺剛監督の映画パラダイスビュー』『ウンタマギルー』に出演。

1990年に沖縄市で「コザ独立国」の建国を宣言。自身も「終身大統領」を名乗り、東アジアやアメリカの文化をチャンプルー(「ごちゃ混ぜにする」の意味の方言)した新たな沖縄芸能・文化の方向性を模索していった。

1991年にはワタブーショーのいでたちで水虫薬のCMに出演し(ロケは琵琶湖で行われた)、全国的にも名を知られるようになった。1990年代からの沖縄ブームの中で筑紫哲也との共著などもある。1994年に沖縄市文化功労賞、2000年に沖縄県文化功労賞受賞。

2000年頃から糖尿病を患い病気療養中であったが、2005年3月10日に肺炎のため死去。

CD

自身作品

  • 沖縄漫談 平成ワタブーショウ 照屋林助(1996)
  • 沖縄よろず漫芸 平成ワタブーショー沖縄チャンプラリズムの神髄2 照屋林助(1996)
  • 67の青春 照屋林助 照屋林賢(1996)
  • 平成ワタブーショー3 スマイル?沖縄の笑い 照屋林助、松田弘二仲本興次宮里政男(1998)
  • てるりん 照屋林助作品集(2000)
  • うちな~ゆんたく・沖縄の笑い芸 小那覇舞天、照屋林助(2005)

他者作品への参加

  • ちゅらぢゅら りんけんバンド(1993)
  • ゴンゴン りんけんバンド(1994)
  • チェレン りんけんバンド(1995)
  • 一つ星 りんけんバンド(1996)
  • 夏ぬ子 りんけんバンド(1997)
  • ZAN 上原知子(1997)
  • パーリー(ベスト) りんけんバンド(1998)
  • ハウリング・ウルフ 登川誠仁(1998)
  • 珊瑚抄II~三線による島の唄集 新垣雄上地一成よなは徹(2003)
  • 奄美の哭きうた 里国隆(2006)

オムニバス盤に収録

映画

著書

  • 『沖縄がすべて』筑紫哲也、照屋林助 河出書房新社、1997.9
  • 『てるりん自伝』照屋林助著 北中正和編 みすず書房、1998.1
  • 『沖縄の神さまから贈られた言葉』晶文社、2003.5

てるりん祭

沖縄市の旧コザ地区中心部にある商店街では、照屋の業績に敬意を表し、彼の名を冠したイベントを開催している。第1回は2009年6月6日に行われ、登川誠仁を始めとする照屋に縁のある唄者たちが多数参加した。2010年(第2回)以降は毎年、林助の生誕日である4月4日に開催されている。

参考文献

  • 藤田正、「偉大なる沖縄のロックンローラー照屋林助(照屋林助とは何であるか パート1)」、(1996)、CD『沖縄よろず漫芸 平成ワタブーショー』解説

外部リンク