浦上政宗

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浦上 政宗(うらがみ まさむね)は、備前国戦国大名浦上村宗の長男で浦上宗景の兄。

生涯

家督相続

享禄4年(1531年)、父・村宗が摂津天王寺で戦死して、以降家督を相続。この頃まだ幼少の身であった虎満丸は一族の浦上国秀の後見を天文7年(1538年)ごろまで受ける。

当初は父の仇ともいえる赤松政祐とは激しく対立し、西播磨の国衆と結束して抗争を続ける。 しかし天文6年(1537年)に尼子詮久(後の尼子晴久)の山陽道侵攻が始まると政祐と和睦。晴政と共にこれに対するも国衆の離反にあって敗北し、備前国から播磨国への撤退を余儀なくされ、天文8年(1539年)末にはさらに東進してきた尼子勢に播磨からも追われ、政祐を奉じて淡路を経由して和泉国へと脱出する。

その後、天文9年(1540年)初頭ごろになって政祐が将軍足利義晴から偏諱を賜って赤松晴政に改名。同時に虎満丸も元服、晴政から偏諱を賜り「与四郎政宗」を名乗った。

再起、赤松の筆頭宿老に

しばらく雌伏の時が続くが詮久が吉田郡山城の戦いの頃に播磨の駐留軍を退くと天文11年(1542年)に幕府の助力を得て晴政と共に播磨に復帰。天文13年(1544年)ころまでに播磨•備前の両国を回復する事に成功した。ここに至るまでの過程で政宗は赤松家臣団を総括的に指揮する立場を占め、これ以降政宗は晴政の筆頭宿老の座に就き、晴政の奉行人と連署で赤松氏の命令を伝える奉書を発給するなどした。また、さらに独自に備前西部の松田氏税所氏らと縁組し室津室山城を拠点として備前•播磨での勢力をさらに強め赤松の家臣の枠から抜けていく。

弟との対立

しかし天文20年(1551年)、再び備前へ侵攻してきた尼子晴久との関係をめぐり弟の宗景と意見が分かれる。そこで政宗は尼子晴久、松田元輝と同盟を結び、宗景は毛利元就の援助を得て対立。備前の国衆も政宗に味方する者(浮田国定など)、宗景に味方する者(中山信正など)が現れ備前の覇権を賭けて争う事になる。しかし天神山城新庄山城などで相次いで敗北。さらに旧主晴政も三石城まで出兵してくるなどし敵に囲まれた政宗は味方の国衆の動きを操ることもままならないまま弘治年間(1555年 - 1557年)の内に備前での勢力を大きく後退させてしまう。

この間にも尼子晴久に度々支援を要請しており、これに際して晴久は自ら約30000余りの軍勢を持って美作国に侵攻した宗景を撃破するも、晴久・政宗にとっても決定打とはならなかった。更には晴久の急死により尼子氏の勢力が後退すると、これらの支援も期待出来ない状況へと追い込まれた。

晩年

勢力の弱まった政宗は永禄元年(1558年)になると足利義輝の仲裁で毛利との和睦の道を探る。また、同年中に自身の復権を目指して赤松晴政を廃して子の赤松義祐へと強制的に家督を継がせる事に成功している。しかしながら一方で追放された晴政も娘婿である龍野城主の赤松政秀を頼った事により龍野赤松氏が独立勢力化し新たな火種を産むことにも繋がった。

また永禄6年(1563年)には10年以上に渡り対立していた宗景とも和睦が成立。播磨の黒田職隆と縁組して再起を図る。しかし永禄7年(1564年)1月、室山城にて職隆の娘と息子浦上清宗(小次郎、又は与四郎とも)の婚礼が行われている最中、あるいは婚礼当日の夜に赤松政秀の奇襲を受けて親子ともに戦死した。法名は実巌祐真禅定門。

参考文献

  • 渡邊大門『戦国期浦上氏・宇喜多氏と地域権力』岩田書院、2011年。

登場作品

関連項目