水野忠央

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水野 忠央(みずの ただなか)は、紀伊新宮藩の第9代当主(幕藩体制下では藩主として認められておらず、紀州藩付家老だった)。第8代当主・水野忠啓の長男。官位従五位下土佐守。号は丹鶴、鶴峯。

生涯

文化11年(1814年)10月1日、水野忠啓の嫡男として生まれる。幼名は健吉。通称は藤四郎。天保6年(1835年)、家督を継いで当主となり、紀州藩主を補佐した。

弘化3年(1846年)に藩主・徳川斉順が死去すると、既に隠居した徳川治寶が推した西条藩松平頼学に藩主を相続させるという案を、治寶への中傷も交えた幕府への働きかけで潰し、一方で将軍・徳川家慶の側室に妹のお琴を送り込み、その子であり自身の甥・田鶴若を据えようと画策する。しかし紀州藩内から幕府に対し、これを危惧する声が寄せられたために結局、徳川斉彊が紀州藩主となる。

嘉永2年(1849年)、斉彊が死去してわずか4歳の幼児・慶福が藩主になると、忠央はこれを補佐することとなった。この頃、紀州藩では後継藩主の若死にが続き、隠居中の元藩主・治寶が家老の山中俊信伊達宗広玉置縫殿熊野三山貸付所頭取)らの和歌山派を形成して藩政を掌握していた。しかし、俊信と治寶が嘉永5年(1852年)に死去すると、江戸派を形成した忠央が藩の主導権を掌握して伊達や玉置を排して専制的な政治を行なった[1]ため、周囲からの批判を浴びたと言われている。

このようにして本藩である紀州藩に対して強大な影響力を持った忠央は、紀州藩の領地である木本地方27ヶ村(現熊野市木本町)と、新宮藩の領地である有田地方(現有田市)の5ヶ村を領地替えしようと画策するが、木本地方の村民の強固な反対に遭った(熊野村替騒動)。安政4年(1857年)、彼らの説得のために江戸詰勘定組頭の吉田庄太夫が派遣されるも、村民の気持ちを理解した吉田が江戸藩邸にて抗議の自決をする事態となり、最終的には撤回された。この騒動は、忠央のその後に少なからず影響を与えたとされる。

藩政を掌握した忠央は大名並みの所領を保有しながら付家老という陪臣の地位から譜代大名並みの地位を強く望み、それ以前の付家老5家が連帯して譜代大名並みの地位を求めた運動から更に先鋭化した運動を幕府に行った。妹の広(ひろ、忠啓の七女、別名於琴)を旗本の杉重明の養女として大奥に入れ、将軍・家慶の晩年の側室として寵愛を受けて4子を儲けることに成功した。家慶の御小姓頭取(後に御徒頭)・薬師寺元真と御小納戸頭(後に御側御用取次)・平岡道弘にも妹を嫁がせた。弟達も幕府関係者に養子入りさせ、御小納戸の水野勝賢、御使番の佐橋佳為村上常要に縁組させた[2]。 第13代将軍・徳川家定に対しても姉の睦(ちか)を側室に送りこみ、更に妹の遐(はる)も大奥に入れて大老・井伊直弼と通じた。家定は病弱な上に嗣子がなかったため、次の将軍位をめぐって徳川斉昭の子・徳川慶喜を推す一橋派と、慶福を擁立する南紀派に分かれて対立することとなった。忠央は井伊直弼の歌道の師であり腹心の長野義言を通じて手を結び、将軍後継に慶福を推した。安政4年(1857年)に幕府で隠然たる勢力を持っていた阿部正弘が死去すると、大奥とも手を結んで正弘の死の翌年、慶福あらため家茂を第14代将軍に擁立した。

しかし安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変で井伊直弼が横死すると、かつての一橋派や反井伊派が勢力を盛り返したため、直弼の与党であった忠央も同年6月に失脚した上、家督を嫡男の忠幹に譲って強制的に隠居することを命じられた。そして以後は政界に二度と復帰することなく(ただし、隠居謹慎処分は元治元年(1864年)に解かれた)、慶応元年(1865年)2月25日に死去した。享年52(満50歳没)。法号は鶴峯院殿前土州太守篤勤日精大居士。墓所は和歌山県新宮市の橋本山。

このように忠央は専制的な人物であったが、その反面で文化人としても優れ、歴史・文学・医学の多方面において当時のことにおいて編纂を命じ、丹鶴文庫という蔵書を作り上げている。、また吉田松陰が「蝦夷地開拓の雄略」と賞賛した蝦夷地開発調査を実行・指揮するなど、聡明で時流を見据えた人物であったことが伺える。

脚注

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  1. 藤野保『江戸幕府崩壊論』2008年、塙書房
  2. 小山誉城「紀伊徳川家付家老水野忠央と将軍継嗣問題」2011年(『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版)