榊原忠次

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榊原 忠次(さかきばら ただつぐ)または大須賀 忠次(おおすか ただつぐ)は、江戸時代前期の譜代大名大政参与。はじめ大須賀家を継ぎ、後に榊原氏を継いだ。遠江横須賀藩主、上野館林藩主、陸奥白河藩主、播磨姫路藩主。榊原家3代当主。従四位下式部大輔、侍従。

生涯

大須賀忠政の長男で、徳川四天王榊原康政の孫である。母が徳川家康の姪であるため、忠次1代に限り終身松平姓を許される。

父の死により3歳で祖母の生家である大須賀家を相続し、遠江横須賀藩で6万を領した。家康の配慮により、安藤直次が後見人とされている。その後、叔父に当たる榊原家当主榊原康勝に子がなく断絶しかかっていたところ、徳川四天王の血統が絶えるのを懸念した家康の命により、忠次が10歳で榊原氏館林藩10万石を相続した。一説には、忠次自身の希望で榊原家相続となったともされる。これにより、大名大須賀氏は絶家となった。

実は榊原家には、康勝の庶子勝政がいたが、3人の家老の策謀により秘匿されていた。後に露見し、3家老は流罪になった。勝政の子孫は旗本として取り立てられ、後に忠次子孫の本家に養子を出す。

正保4年12月12日1648年1月6日)、奥平昌能とともに幼年の徳川家綱の傅役を仰せ付けられた。 その後、白河藩14万石に転封、更に姫路藩15万石に国替となり、寛文3年(1663年)には保科正之の推挙により、井伊直孝の死後、幕府の老職(大政参与)に迎えられた。

万治2年(1659年)、現在の加古川市東神吉町から米田町にかけての加古川右岸に「升田堤」という堤防を構築し、それまで2つに分かれていた升田-船頭間の川の流れを1つにする流路改変工事を実施している。

姫路では新田開発を指揮するかたわら、和歌百人一首を嗜んだ。

榊原忠次の墓所

増位山随願寺にある榊原忠次の墓所。1665年に子の政房によって建てられ、面積はおよそ1100あり、彼の事跡を刻んだ碑文は幕府の儒学者である林家林鵞峰によって作成されている[1]

経歴

官位位階

脚注

  1. 墓所唐門横にある案内板より。

外部リンク


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