榊原康勝

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榊原 康勝(さかきばら やすかつ、1590年天正18年) - 1615年6月23日元和元年5月27日))は、江戸時代前期の武将大名。従五位下・遠江守。上野館林藩第2代藩主。榊原家2代当主。徳川四天王の一人・榊原康政の三男。大須賀忠政榊原忠長の弟。正室は加藤清正の娘本浄院。子に勝政

3男であったが、慶長11年(1606年)には父の病死により、上野館林藩10万石の遺領を継いだ。長兄の忠政は外祖父大須賀康高養子として大須賀家へ出されており、次兄の忠長は早世していたためである。

慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも徳川方として参戦し、冬の陣では佐竹義宣の窮地を救っている。翌年の夏の陣にも参加し、5月6日の若江の戦いで豊臣方の木村重成と戦闘、翌日の天王寺・岡山の戦いにも参加したが、連日の戦いは豊臣軍に大損害を与えられる結果となった。

ところが夏の陣後の5月27日、大坂から引き上げた先の京都にて、以前から患っていた腫れ物の為に死去した。26歳。「難波戦記」などの書物には、大坂冬の陣で腫れ物()が破け、大量に出血。それが夏の陣の激戦で悪化したが、鞍壷に血が溜まってなお戦い続け、治癒する事無く死亡したと記されている。法名「心光院殿長誉了英大禅定門」。墓所は館林市の善導寺。

なお康勝には庶子・平十郎(勝政)がいた。ところが、家老の中根吉衛門、原田権左衛門、村上弥右衛門の3名は、幼君では武功を立て難たく、立身を望めないと策謀して、幕府・家康からの質問に対し康勝に嗣子なしと回答した。家康は次に、康勝の兄で大須賀家に養子に出ていた大須賀忠政の子の大須賀忠次(康勝からは甥に当たる)に対し、榊原の名跡継承の意志を問うた。忠次側より榊原の名跡を継ぎたいと回答があったため、忠次が榊原氏に復帰し、相続をすることになった。しかし後に、三家老の策謀は露見し、それぞれ流刑に処された。

なお、平十郎勝政は後に幕府より1,000石を与えられ、その子勝直から旗本榊原氏が始まる。勝直の子の政邦が後に榊原本家を継いだ。


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