森山泰行

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テンプレート:サッカー選手 森山 泰行(もりやま やすゆき、1969年5月1日 - )は、岐阜県出身のサッカー選手、サッカー解説者。現役時代のポジションはFWJFA 公認S級コーチ

来歴

サッカーの名門・帝京高校から順天堂大学を経て1993年、Jリーグの発足と共に名古屋グランパスエイト入団。アーセン・ベンゲル監督時代には途中出場で高い得点率を誇り、スーパーサブとして活躍。1997年までに146試合出場51得点を挙げチームの主力選手として活躍する。その後1998年にベルマーレ平塚に移籍するもケガなどで出場機会に恵まれず、海外でのプレーを選択する。

1998年にスロベニアリーグの強豪・ヒット・ゴリツァND Gorica)でプレーした後、同じ旧ユーゴスラビア圏のチームであるレッドスター・ベオグラードが興味を示したといわれるが、ユーゴスラビア紛争の影響もあり移籍は実現せず。その後もフランスの強豪オリンピック・マルセイユへの移籍の噂があったほか、1999年にはブラジルのポルトゲーザECジュベントゥージのテストを受け合格するもいずれも契約の細部がまとまらなかったため加入には至らず。1999年のシーズン途中にサンフレッチェ広島に加入し、2000年には川崎フロンターレへ移籍した。2001年から名古屋に復帰し、その年は26試合12得点で復調を見せたかに見えたが、2002年シーズン途中でコンサドーレ札幌に移籍。2004年みたび名古屋に復帰するも出場はなく、その年で一旦現役を引退した。

しかし、2005年に森山の地元・岐阜県で将来のJリーグ参入を目指して取組みを始めたFC岐阜からの要請を受けてアドバイザー兼任で現役選手復帰を果たした。2007年からはさらに取締役も兼任している。森山はかねてから「引退したら(地元である)岐阜でチームを立ち上げたい。子供たちに夢を与えたい」との夢があり、FC岐阜のJリーグ昇格に尽力、J2への昇格を実現させた。GM第一人者とも言われる元広島総監督である今西和男のFC岐阜GM就任も、森山の熱意に打たれたものである。また地元中京地区でテレビのスポーツコメンテーターをしている他、名古屋のローカルタレントである黒岩唯一と共にフットサルチーム「KURO FC」を立ち上げるなど、サッカー文化の地域密着に大きな関心と情熱を傾けている。

日本代表としては1997年6月15日長居スタジアムで行なわれたキリンカップ1997・トルコ戦(○1-0)でA代表デビュー。代表通算1試合0得点。順天堂大学時代も日本代表に選出された経験をもつが、試合には出場していない。

ピクシーことドラガン・ストイコビッチとのコンビネーションが絶妙で、ピクシーから放たれるファンタスティックなパスを幾度となく見事ゴールしていた。ピクシーからは「ペナルティエリア内の虎」と評価されていた。

名古屋時代の恩師であるアーセン・ベンゲルは、日本を離れイングランドに移った後も森山を気にかけており、イングランドに取材に来る日本人記者に「ゴリ(森山)は元気か?」と聞くことがあった。

2004年に現役を一時引退した際、名古屋地区のJリーグ中継における解説を兼任し始め、FC岐阜に関わってからも解説者活動をしていたが、FC岐阜がJ2に2008年度から加盟すると決定してからは、解説者活動にある程度の区切りをつけ「コーチ兼任ではなく選手一本でやる」と公言してFC岐阜に専念した。

2008年9月、同シーズン限りで現役を引退し、FC岐阜のアドバイザーに就任することを発表した[1]

2009年2月27日、経営状況が厳しいため、FC岐阜はアドバイザリー契約を締結しない事を発表した。以降は再び、サッカー解説者として東海3県を中心に活動している。

2009年度JFA 公認S級コーチ養成講習会を受講し合格した。

2014年4月1日付で、浦和学院高校サッカー部の監督に就任した。

選手時代の特徴

ゴール前での集中力の高さ、動きの質の高さが特徴。名古屋時代はスーパーサブとして活躍。「負けている状況でも、森山が投入されれば逆転可能」と名古屋のサポーターから絶大な信頼を受けていた。

試合後半の最後の時間帯での決定力はJリーグ随一と言われ、ストイコビッチ、望月重良平野孝などの質の高いパサーからのアシストを受けて貴重なゴールを量産した。

身長も高くはないがヘディングも上手く、滞空時間も長い。時には泥臭く、時には豪快なゴールでサポーターを沸かせた。

抜群のスピード、瞬発力を持っていたが、体質上血糖値が低いなどの理由からか90分間の運動量・持久力は無かった。ベンゲルが森山をスタメンで起用しなかったり、日本代表で活躍できなかったのも、これが理由だったとする意見もある。しかしJ1通算で215試合66得点は、その多くを途中出場で挙げたことを考慮すると驚異的な数字である事がわかる。66得点のうち23得点を途中出場から決めており、これは2011シーズンまでJリーグ記録であった[2]

所属クラブ

個人成績

テンプレート:サッカー選手国内成績表 top テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1992||rowspan="6"|名古屋||rowspan="5"|-||rowspan="7"|J||colspan="2"|-||4||0||1||1||5||1 |- |1993||12||4||0||0||1||1||13||5 |- |1994||39||13||1||0||2||1||42||14 |- |1995||42||14||colspan="2"|-||4||0||46||14 |- |1996||26||11||14||4||1||0||41||15 |- |1997||15||29||9||5||1||1||0||35||10 |- |1998||平塚||29||4||0||0||0||2||0||6||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1998-99||ゴリツァ||||スロベニアリーグ||10||1|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1999||広島||11||rowspan="5"|J1||11||3||0||0||3||0||14||3 |- |2000||川崎||9||14||0||5||0||1||0||20||0 |- |2001||rowspan="2"|名古屋||rowspan="2"|15||26||12||3||0||1||0||30||12 |- |rowspan="2"|2002||7||0||5||0||colspan="2"|-||12||0 |- |rowspan="2"|札幌||9||4||0||colspan="2"|-||3||0||7||0 |- |2003||15||J2||5||0||colspan="2"|-||0||0||5||0 |- |2004||名古屋||35||J1||1||0||0||0||colspan="2"|-||1||0 |- |2005||rowspan="4"|岐阜||rowspan="4"|15||東海2部||8||2||colspan="2"|-||colspan="2"|-||8||2 |- |2006||東海1部||11||5||colspan="2"|-||2||1||13||6 |- |2007||JFL||8||0||colspan="2"|-||3||1||11||1 |- |2008||J2||13||1||colspan="2"|-||0||0||13||1 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始215||66||39||5||18||3||272||74 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行18||1||colspan="2"|-||0||0||18||1 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行8||0||colspan="2"|-||3||1||11||1 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行11||5||colspan="2"|-||2||1||13||6 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行8||2||colspan="2"|-||colspan="2"|-||8||2 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行10||1|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終270||75|||||||||||| |} その他の公式戦

国際試合

代表歴

試合数

  • 国際Aマッチ 1試合 0得点(1997)

テンプレート:サッカー代表個人成績 |- |1997||1||0 |- !通算 |1||0 |}

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

  • テンプレート:Wayback - 中国新聞(2008年9月10日)
  • 森山泰行監修、六川亨著『ストライカー特別講座』東邦出版、2011年、36-37頁。この記録は、2011シーズン、セレッソ大阪に所属していた播戸竜二によって9月10日のサンフレッチェ広島戦で破られた。