柳川熊吉

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テンプレート:出典の明記 柳川熊吉(やながわ くまきち、文政8年(1825年) - 大正2年(1913年12月7日))は、幕末侠客。道産子ヤクザの鼻祖とされる。江戸浅草出身。本名は野村熊吉だが、柳川鍋を商売としていたので姓を柳川とした[1]

生涯

浅草料亭の息子に生まれる。新門辰五郎が幅を利かせていた浅草で顔役となり、幕臣などとも交流があったと言われる。安政3年(1856年)、五稜郭築城のため自ら人員を率いて箱館へ渡り築城動員を補佐。その後、江戸流柳川鍋を商売として生活していたが、箱館戦争が勃発し、敗北して賊軍とされた旧幕府軍の遺体が埋葬を許されずに箱館市中に放置されると言う惨状に堪えられず、実行寺住職・松尾日隆、大工棟梁・大岡助右衛門と相談し子分たちに遺体を回収させ、実行寺・称名寺・浄玄寺に仮埋葬した。新政府軍に捕らわれ死刑宣告を受けたが、軍監田島圭蔵の助命により釈放された。

後に函館山の麓に旧幕府軍の遺体を改葬して碧血碑を建立。榎本武揚ら箱館戦争の生き残りの者達と交流を持った。碧血碑の管理を務め、大正2年に死去。享年89。熊吉の功績を讃える記念碑が碧血碑のすぐ傍に建てられている。

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脚注

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参考文献

  • 「柳川」と名付けたのは箱館奉行・堀利煕と言われる。