松田憲秀

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テンプレート:出典の明記 松田 憲秀(まつだ のりひで、生年不詳- 天正18年6月16日1590年7月17日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将後北条氏の家臣。松田盛秀(顕秀)の嫡男。母は北条為昌の娘で、北条綱成の妹である。叔父に松田康定(康隆)松田康長康郷兄弟の父)がいる。子に笠原政晴(政尭)松田直秀北条氏直より偏諱を賜う、は直定・秀治とも、後に憲秀の1字を受け憲定に改名)。娘は松田殿(北条氏康の側室)、内藤綱秀の子・直行の妻。左衛門佐、後に尾張守を称した。

松田家北条早雲以来の譜代の家老の家柄で、2,798貫という知行を食む大身である。

憲秀は家老として北条氏康に仕え、様々な内政政策や千葉氏里見氏などの諸勢力(主に千葉氏重臣・原胤栄や里見氏重臣・正木氏との書状が多く残る)との外交面で辣腕を振るった。また、永禄12年(1569年)には駿河深沢城にて北条綱成と共に籠城して武田勢から守備、国府台合戦神流川の戦いなどの諸戦に従軍し、各地を転戦した記録も多く残る。氏康死後は氏政に仕えた。当時一国の大名ほどの格式を持ち、文書発給の際に印章を使用した。文書に判を押すのは東国の戦国大名の特徴でもあった。

天正8年(1590年)豊臣秀吉小田原征伐では、当初は徹底抗戦を主張するも、秀吉側の堀秀政らの誘いを受けて長男の笠原政晴とともに豊臣方に内応しようとした。しかし、次男・直秀の注進があり北条氏直によって事前に防がれ、憲秀は監禁、政晴は殺害された。この事件は、北条家に降伏を決意させることとなったといわれている。この結果、北条家仕置時に、秀吉にその不忠を咎められて切腹した。

次男・直秀は氏直に従い高野山に入り、氏直死後、憲定と改名し、豊臣秀次前田利長に仕えて、前田家では4,000石を知行され、慶長19年(1614年)7月に金沢で死去している。

なお、小田原籠城時に豊臣方に内応した説であるが、憲秀は一度は徹底抗戦を主張したものの、秀吉軍の前に抵抗は無理と悟り相模伊豆の2国の所領安堵と城兵の助命を条件に和睦を打診していたという説もある。しかし、これは憲秀独断の交渉であり、また一度は徹底抗戦を主張した当事者としては許されるべき対応ではなかったために、露見した際に死罪ではなく監禁されたと思われる。子の政晴については積極的に内応をしようと次男・直秀に相談していたという経緯があったために、憲秀とは違い即座に死罪となったと推測される。しかし、政晴が僧になり静岡県三島市の蔵六寺を開山し、寛永3年(1626年)に60歳で病死したという寺伝も残っている。