松浦鎮信 (法印)

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松浦 鎮信(まつら しげのぶ、1549年天文18年)- 1614年7月3日慶長19年5月26日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。平戸の松浦氏第26代当主。肥前国平戸藩初代藩主。

松浦隆信の長男。母は杉隆景の娘。正室西郷純堯の娘。子は松浦久信(長男)、松浦信正(次男)、娘(日高信喜室)、娘(後藤広明室)、娘(西郷純成室)、娘(桃野某室)、娘(南総某室)。また側室として「小麦様」と称される朝鮮女性がいる。

官位は従四位下肥前守。近隣の強大勢力である大友義鎮(宗麟)より偏諱を与えられ鎮信を名乗る。法号は当初宗信、後に無外庵宗静と称した。出家後は法印に昇り、式部卿に任ぜられたため式部卿法印平戸法印と呼ばれた。

経歴

永禄11年(1568年)、父から家督を譲られた。この頃、肥前国では龍造寺隆信の勢力が台頭し、鎮信もその膝下に組み込まれることを余儀なくされたが、天正12年(1584年)に龍造寺隆信が戦死すると、再び独立した。天正14年(1586年)、広田城合戦において大村純忠らの軍勢を退ける。天正15年(1587年)、父と共に豊臣秀吉の九州平定に参陣して所領を安堵されている。天正17年(1589年)に出家したが、松浦氏の実権を握り続けた。文禄元年(1592年)から慶長3年(1598年)までの6年間、文禄・慶長の役に出陣し、朝鮮に在陣し続けた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、本国に在国していた鎮信は肥前の神集島で開かれた去就会議に参加して東軍に与することを決定した。また、慶長4年(1599年)、日ノ岳城(後の平戸城)建設に着手するが、徳川家康の信任を得るために建設途中で焼却した。これにより、戦後、所領を安堵され、平戸藩初代藩主となった。なお、平戸城が再建されたのは約100年後の宝永4年(1707年)、第5代藩主松浦棟の時代になってからである。

リーフデ号事件の漂着民のうち、クワッケルナックらを帰国させるための船を建造した。クワッケルナックらは家康の親書を携え慶長10年(1605年)、日本を出立した。慶長14年(1609年)、オランダ東インド会社商館を誘致し、ついで慶長18年(1613年)にイギリス東インド会社の商館も設立され、また同年アダムスを平戸に招き平戸貿易に尽力する。また、領内におけるキリシタンの排除も行なった。

関連項目

テンプレート:平戸藩主