松平勝善

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テンプレート:基礎情報 武士 松平 勝善(まつだいら かつよし)は、伊予松山藩12代藩主。定勝系久松松平家宗家13代。

生涯

薩摩藩主・島津斉宣の十一男。母は側室・百十(真如院殿)。天保3年(1832年)、松平定通の養嗣子となる。天保6年(1835年)、養父の卒去により松山藩15万石を継承。間もなく隠岐守に転じ溜間詰に任ぜられる。天保8年(1837年)、大塩平八郎の乱に出兵。同年、12代将軍・徳川家慶の名代として御使に任ぜられ上洛するも、仁孝天皇不予のため拝謁は賜らなかった。天皇の思し召しにより、江戸へ帰館後、左近衛権少将に昇任。

勝善もまた子宝に恵まれなかった。田安徳川家当主・徳川斉匡の子・錦之丞を養子とすることが内定しており、天保8年(1837年)11月25日には正式決定していた。しかし翌天保9年(1838年)に越前福井藩主・松平斉善が突然死去した際、将軍・徳川家慶の意向により錦之丞はそちらの跡取りとされてしまい、勝善との養子縁組話は解消されてしまった。この錦之丞がのちの幕末の名君として知られる松平春嶽である。このため勝善は弘化4年(1847年)に先代・定通の娘・令姫を養女とし、讃岐高松藩主・松平頼恕の六男・増之助(のち勝成)を婿養子とした。

嘉永5年(1852年)、養曾祖父・定国の代に落雷で焼失した松山城本壇が復興され、翌々年には落成式典が盛大に催された。安政3年(1856年)8月11日(8月10日とも言われている)、江戸松山藩邸にて卒去。享年40。

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