隠岐国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Pathnav テンプレート:基礎情報 令制国 隠岐国(おきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。

「隠岐」の名称

平城宮(平城京)木簡には「隠伎国」と表記されている。

隠岐島

隠岐島(おきのしま)は、日本海にある島根県所属の島々である。島根半島から北東へ約65km、日本海にある隠岐諸島は大小180余りの島々から成り立つ群島型離島。西ノ島中ノ島知夫里島島後島(どうごじま)の4島に人が住み、島後に対して前3島を島前(どうぜん)と呼ぶ。

沿革

7世紀に設置された。

国内の施設

国府

和名抄』によれば、国府は周吉郡にあった。現在の隠岐郡隠岐の島町で稲益・横田(おおた)、甲ノ原遺跡、原田地区と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。

国分寺

隠岐国分寺
隠岐の島町池田の真言宗国分寺境内に存在したと考えられている。本堂・南門・中門跡などの礎石といわれるものが残っているが、まだ本格的な発掘調査が行われていないため、当時の伽藍配置などは不明である。

尼寺跡は、国分寺の南東500メートルの所に比定される。

神社

延喜式内社
延喜式神名帳』には、以下に示す大社4座4社・小社12座11社の計16座15社が記載されている。大社4社は、全て名神大社である。
総社一宮

玉若酢命神社は宮司家が国造を称するなど、実質的には一宮・水若酢命神社よりも玉若酢命神社の方が格が上であった。二宮以下は存在しない。

後醍醐天皇の行在所

隠岐は配流地であり、後鳥羽上皇後醍醐天皇などが流された。

元弘2年(1332年)に後醍醐天皇は隠岐へ流罪となる。隠岐での後醍醐天皇の行在所と伝えられる土地は二箇所あり、島根県西ノ島町の天皇山には天皇の行在所と伝えられる黒木御所址や黒木神社、寵姫の阿野廉子の三位局屋敷跡や監視を行っていた見付島などの史跡が存在し、古文書も保管されている。一方国分寺の存在した隠岐の島町にも行在所があったと伝えられている。

地域

戦国時代

尼子氏は隠岐の守護代から守護となり隠岐を支配したが、尼子氏の滅亡とともに隠岐国は毛利氏一門の吉川元春の支配となった。

江戸時代

隠岐は松江藩(堀尾家、京極家)の分国となったが、寛永15年(1638年)以降は天領となった。

人物

国司

守護

鎌倉幕府

室町幕府

武家官位としての隠岐守

関連項目

テンプレート:令制国一覧