松岡磐吉

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幕府軍艦蟠竜丸艦長・松岡磐吉

松岡 磐吉(まつおか ばんきち、天保12年(1841年) - 明治4年(1871年)7月5日)は、幕末期の幕臣箱館戦争時に旧幕府軍艦蟠竜丸艦長をつとめた人物。長崎海軍伝習所2期生。盤吉と表記されることもあるが正しくは磐吉で、読みはばんきち。戒名は不明。家紋は三割剣酢漿(かたばみ)。

経歴

元は、伊豆韮山代官江川英龍の家士。江川家元締手代松岡正平の三男(長男・市川来吉、次男・柴弘吉/誠一/貞邦。いずれも養子に行き、磐吉が跡取りであった)として伊豆に生まれ、英龍の小姓をつとめながら、蘭学・砲術を学ぶ。江川家での役は「御鉄砲方」。剣は練兵館神道無念流皆伝を得る。

安政3年(1856年)より、長崎海軍伝習所でオランダ人教官より海軍術を学び、卒業後は10代で江戸築地の軍艦操練所の教授方を務める。安政6年(1859年)日本初の沿海測量を実施して海図を作成。安政7年(改元され万延元年)(1860年)、咸臨丸の測量方士官として渡米。帰国後、列強により所有されかかっていた小笠原諸島の回収任務に赴き、母島の測量地図作成を担当した。

明治元年1868年)8月20日、榎本武揚らと共に品川を脱出し、蝦夷をめざし北上。この時から一貫して蟠竜丸艦長をつとめる。

箱館戦争では、敵味方双方の文書に松岡の操艦の巧みさと冷静な指揮ぶりが記録される。艦砲射撃松前城攻めなどを援護したのち、明治2年1869年)3月には宮古湾海戦に参加。悪天候で艦隊は離散し、攻撃には参加できなかったが、追撃してきた甲鉄艦に一艦で接舷攻撃をすべく戦闘準備。しかし甲鉄艦の射程に入る直前、偶然強い追い風が吹き始めたため、戦闘には入らず振り切って帰港に成功した。

明治2年(1869年)5月11日の箱館総攻撃では、最後の一艦として早朝から縦横に運転して応戦。松岡は双眼鏡を手に着弾を確認しては砲撃を指示し、圧倒的な兵力差にもかかわらず新政府軍艦朝陽丸の火薬庫に砲撃を命中させて轟沈せしめた。これは日本史史上初の軍艦の轟沈記録となる。死者57名。この時、陸兵は、生き残って海上にある新政府軍兵士を陸地から狙撃したが、松岡はこれを禁じた。その後、新政府艦隊から集中砲火をあび、弾薬が尽きるまで応戦したのち、乗組員ともども弁天台場近くに上陸、敵中を突破し弁天台場へ撤退。14日まで小銃等で応戦を続けたが、弾薬・飲料水・糧食が尽きたため、永井尚志相馬主計らと15日に投降した。

5月18日に降伏した箱館政権(蝦夷共和国)総裁榎本武揚らと共に東京の辰口糺問所に収監され、未決のまま在獄2年を過ごした。獄中では英語を学ぶなどしていたが、明治4年7月5日5時、赦免6ヶ月前にして伝染性の熱病のため獄中で死亡し、兵部省による仮埋葬(夏季のため)ののち、松岡家菩提寺に葬られた。享年満29~30歳。明治5年1872年)1月、榎本武揚ら幹部の赦免とともに、死後赦免された。旧斗南藩士、武田信愛による赦免嘆願書には、松岡の人となりを「気骨本幹ありてよく衆を御す」と書かれている。

参考文献

  • 『舊幕府』より「松岡磐吉君小傅」(丸毛樵村)、「幕府の軍艦蟠龍丸の記」(横井時庸)
  • 『同方會誌』より「獄中日誌」(大鳥圭介)、「山内堤雲翁自叙傅」(山内堤雲
  • 『復古記』
  • 『子爵中牟田倉之助傅』
  • 『史談会速記録』より曾我祐準談、林董
  • 『江川坦庵全集』
  • 『太政官日誌』
  • 林董『後は昔の記』
  • 竹内運平『箱館海戦史話』
  • 樋口雄彦『敗者の日本史 箱館戦争と榎本武揚』
  • 江川家史料
  • 防衛省防衛研究所所蔵 兵部省雑史料

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