東條由布子

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祖父の元内閣総理大臣東條英機と祖母の勝子と。1941年

東條 由布子(とうじょう ゆうこ、1939年5月20日 - 2013年2月13日)は、日本著述家NPO法人環境保全機構理事長(東條由布子の個人的な組織であり、環境保全再生機構とは無関係。現在はホームページも閉鎖され、現存するか不明)。

東條英機の長男・英隆(鴨緑江発電職員)の長女。本名は岩浪淑枝(旧姓:東條)。英機の孫に当たる。

人物

朝鮮京畿道京城府(現大韓民国ソウル特別市)生まれ。テンプレート:要出典範囲

第一生命保険相互会社勤務を経て、明治学院大学に進むが結婚のため中退。4児の母となった後、国士舘大学教育学科2年に編入学し、卒業。

保守の論客の一人として知られ、祖父・英機を遺族の立場から評価し、他の「A級戦犯」も含めて極東国際軍事裁判「判決」・靖国神社からの分祀、慰安婦強制連行南京事件などに否定的な立場を取った。原爆投下については「原爆神話」を否定し、ナチスのユダヤ人虐殺と全く同じ次元の野蛮な行為と述べ、一貫してアメリカを批判した。

テンプレート:要出典範囲テンプレート:要出典範囲。また「祖父が祀られているために天皇陛下がご参拝できないことになっているのは、大変申し訳ない思いで靖国の鳥居をくぐっております」とも発言しているが、同時に「分祀はできません」と主張している。テンプレート:要出典範囲

雑誌「正論」2005年11月号で祖父・英機を誹謗中傷した石原慎太郎に抗議している。

2006年8月15日に「A級戦犯は我が国の国内法に基づいて言い渡された刑ではないが、東京裁判に於いて有罪とされた戦争犯罪人であることは事実であり、我が国はその裁判を受諾している。国と国との関係において、同裁判について異議を述べる立場にはない。」と国会答弁で述べている小泉純一郎総理が靖国神社を参拝した後に、その発言と参拝の整合性について問われて「A級戦犯のために行っているのではない」と答弁したが、東條はこれを「A級戦犯のため『だけ』に行っているのではない」という意味だと主張している(小泉の真意は不明)。維新政党・新風支持者からは、新風の講師である東條を公認・推薦候補とすべきとの声が挙がったが、同じく新風で講師を務める兵頭二十八はブログで、東條が保守派の集会において自身の商売の宣伝をして回り、保守的運動との関係がこじれていることを暴露し東條を批判。東條を支援しない新風を擁護した[1]

ジャーナリストの高田欽一は、1940年蒋介石ナチス・ドイツを仲介者として打診して来た、テンプレート:要出典範囲

2007年7月29日投開票の第21回参議院議員通常選挙に東京選挙区から無所属新人候補として立候補したが、落選した(獲得票数:59,607票、得票率:1.0%、供託金没収)[2]。なお、東條の選挙対策事務所には、東條の物ではなく自民党比例区山東昭子日本会議国会議員連盟副会長)のポスターが貼付してあった。

2013年2月13日、間質性肺炎のため死去[3]テンプレート:没年齢

家族

  • 夫はNHKOB。東條が通名を用いているのは“東條家擁護の活動に岩浪姓を使う事は許さない”との夫の意向を受けたためである。しかし、東條家では、既に東條姓ではないのに「東條」を称して政治活動をしていることに対して強い批判があるという。また、後述のとおり父英隆が東條大将と疎遠であったことや、テンプレート:要出典範囲
  • 父・東條英隆は東條英機の長男であるが、テンプレート:要出典範囲軍人にはならなかった。就職に際しても父の世話になることはなかったが、就職先が満州国警務部であったため、当時関東軍参謀長であった英機はテンプレート:要出典範囲彼を免職にするか永久に昇給停止にすることを人事担当者に要求した(この指示は結局無視された)。この出来事は両者の亀裂を決定的にし、戦後英機が巣鴨プリズンから、テンプレート:要出典範囲を英隆に送った際も、「何を未練がましいことを言うか」などと述べ、テンプレート:要出典範囲

著書

  • 「岩浪由布子」名義の版
  • 『祖父東條英機「一切語るなかれ」』文春文庫、2000年3月 ISBN 4-16-736902-8
  • 『東條家の母子草』恒文社21 2003年8月 ISBN 4-77-041100-6
  • 『大東亜戦争の真実 東条英機宣誓供述書』ワック 2005年8月 ISBN 978-4898310830 (1948年発行「東條英機宣誓供述書」を改題、ワック版ではGHQ発禁第一号と宣伝されている。GHQの検閲は1945年の占領直後から始まっている(プレスコード他)が、GHQによる刊行物没収リスト(the confiscation of the propaganda publications)は昭和二十一年(1946年)三月十六日から昭和二十三(1948年)年四月十五日まで政府に届けられている。花田紀凱が宣伝用に話を作ったと主張する人もいる。)

論文

脚注

  1. http://sorceress.raindrop.jp/blog/2007/05/#a000790
  2. テンプレート:Cite news
  3. テンプレート:Cite news

関連項目

外部リンク