李嗣源

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テンプレート:基礎情報 中国君主 李 嗣源(り しげん)は、五代後唐の第2代皇帝

生涯

出生

出自ははっきりしないが少なくとも漢民族ではなく、いわゆる「雑胡」で、父は代州にいた遊牧民族の一首長・錫霓(錫電)[1]。若いころから武勇に優れて信望厚く、李克用の義子(養子分)となった。当時の軍閥では有望な部下を義子として処遇することが広く行われており、嗣源もまたそのような一人であった。

契丹討伐や後梁討滅などにおいて活躍し、頭角をあらわした。やがて、李克用の長男・荘宗(李存勗)が酒に溺れて次第に政治を顧みなくなり、各地で反乱が勃発すると、その鎮圧に向かうように命じられたが、配下の軍に推されて荘宗を弑逆し、さらに反撃した荘宗の太子で魏王の李継岌の軍勢を渭水でこれを滅ぼし、推戴されて皇帝となった。

即位

天成元年(926年)に即位した明宗は都を洛陽から開封に遷した。宰相として馮道を登用し、内政に注力した。宦官の勢力を抑制し、支配地に大規模な検地を行なって税制の整備を行なった。また、自身も奢侈を禁じて倹約に努め、三司徒を創設するなど、内政に多大な成果を挙げた。また代州出身の異民族として漢民族に君臨することを悩み、天に漢民族の天子として下すことを祈ったといわれる。その謙虚さゆえに国内は安定して、明宗は五代の中でも屈指の名君とまで讃えられている。

しかし軍部に推戴されて即位した経緯から、軍部を優遇して大きな権力を与えた結果、軍部の驕慢と専横を招き、長興4年(933年)に明宗が崩御してわずか3年で後唐が滅ぶ遠因となった。

宗室

后妃

脚注

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テンプレート:後唐の皇帝
  1. 新五代史』によると「李霓」または「李電」。