馮道

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馮道(ふう どう、882年 - 954年)は、中国五代十国時代の政治家。五朝八姓十一君に仕えた。瀛州景城県来蘇里(河北省滄州市)の生まれ。は可道、は長楽。

生涯

初めは劉守光に仕えていたが、朱全忠後梁の太祖)と李存勗の二大勢力の間で漁夫の利を得ようとして危険な軍事・外交政策を続ける主君に諫言し、幽閉される。後に李存勗が燕に攻め込むと、馮道は救出されて李存勗が建国した後唐に仕えるようになった。

しかし926年に李嗣源(後唐の明宗)が軍を向けると、李存勗は近衛兵に殺された。馮道は李嗣源に仕えたが、李嗣源は933年に病死する。その後、李従珂(末帝)によって馮道は左遷された。

後晋石敬瑭(高祖)は936年にに援軍を求め、耶律堯骨(遼の太宗)は大軍で後唐を滅亡させた。石敬瑭は契丹に臣従した。馮道は李従珂に左遷されていたことが幸いとなり、後晋の宰相になった。遼への使者として派遣された馮道は、耶律堯骨に気に入られて帰国する。しかし石敬瑭が942年に病死すると、馮道は左遷された。耶律堯骨は946年に開封を攻略し、後晋を滅ぼした。馮道は耶律堯骨と再会し、再び宰相となった。遼は中原を支配しようとしたが、蛮族を嫌った住民が各地で抵抗し、撤退せざるを得なくなった。馮道も同行するが、耶律堯骨は北へ引き返す途上で病死した。馮道は開封へ戻った。

劉知遠は947年に後漢を建て、開封へ入城したが、翌年に死去した。次男の劉承祐が後を継ぎ、有力者の粛清を図るが失敗する。粛清を逃れた郭威は951年に後周を建てて兵を挙げ、逆に開封を攻め落とし、誅殺を企んだ側近を殺した。馮道はまたもや宰相に返り咲いた。しかし954年に郭威は死去し、柴栄(後周の世宗)が即位した。同年に馮道は波乱の生涯を閉じた。

五代十国時代には皇帝・王朝が激しく入れ替わったが、その中で馮道は後梁を除いた五代王朝の全て(後唐後晋後漢後周)と、後晋を滅ぼして一時的に中原を支配した契丹族王朝のに仕え、常に高位にあった。馮道は仕えた主君を「五朝八姓十一君」と称している。

五朝
後唐・後晋・遼・後漢・後周の5つの王朝。
八姓
後唐の李存勗、その養子の李嗣源(本姓不詳)、そのまた養子の李従珂(本姓王氏)の3つの李氏、後晋の石氏、遼の耶律氏、後漢の劉氏、後周の郭威とその養子の柴栄の2氏の合計8つの姓。
十一君
後唐4代、後晋2代、遼1代、後漢2代、後周2代の合計11人の皇帝。

宰相としての在任期間は20年に及ぶ。節度使出身である五代の武人皇帝や北方の遼の皇帝たちには、農民に対する哀れみの心が少なかったため、時に暴走する皇帝を諫め続け、時の民衆に敬仰された。一例を挙げれば、遼の耶律徳光開封に入った時に漢族を虐殺し、略奪を行いそうになったので、これを馮道は「今、仏陀がここに現れても民衆を救う事は出来ず、ただ皇帝である貴方だけが民衆を救う事が出来るのです。」と持ち上げて止めた。

882年 馮道、生

926年 李存勗を近衛兵が殺害。

933年 後唐の李嗣源が病死。

936年 後晋の石敬瑭が後唐を滅ぼす。

942年 石敬瑭が死去。

946年 遼の耶律堯骨が後晋を滅ぼす。

947年 劉知遠が後漢を建てる。

948年 劉知遠が死去。

951年 郭威が後周を建てる。

954年 郭威が死去

954年 馮道、没

評価

後世、特に朱子学的見地からは売国奴、変節漢と呼ばれ、司馬光なども「貞女は二夫に従わず、忠臣は二君に仕えず」と痛切に批判している。その際に非難の的となったのが、「五朝八姓十一君」に仕えたことである。『旧五代史』巻126の本伝に見える「史臣曰」には既に「そもそも一女二夫は、人の不幸なり」として、司馬光と同様の批判が行なわれている。が、早くに散逸した『旧五代史』よりも、通行した欧陽脩の『新五代史』巻54の「無廉恥漢」(破廉恥)とする評語が、司馬光の批判と共に後世に影響を与えた。また、遼の皇帝を「仏以上」と煽てた事も批判されている。

しかし一方で、馮道は当時の人々には大いに尊敬され、また後世の歴史家の中でも馮道を弁護する者がいる。中でも異端の歴史家といわれる李卓吾は「孟子は『社稷を重しと為し、君主を軽しと為す。』と言っている。馮道はこれを体現し、民衆を安寧にした。」と絶賛している。ただし「これは五代のような時代だから許される事であって、他の時代の変節漢がこれを言い訳としてはいけない。」とも述べている。

また、晩年の馮道が長楽老と号して自らの功績をぬけぬけと誇った、というような馮道の自己顕示を嫌う人も多い。馮道自身も高官の地位に長くありながら君主のため天下を平定し、天地の恩に報いることができなかったことは残念であると述懐している。しかしそういったことを鑑みても、馮道のおかげで命を救われた民衆は数多く、非常時の宰相として、その功績はある程度評価されるべきであろう。なお、長楽の号に対して怪しからんとする論評が見られるが、「長く楽しむ」義にとるのは誤解・曲解であり、長楽とは馮道が本貫とした始平郡・長楽郡の馮氏の故地である長楽(河北省冀県)に因むものである。

なお、馮道は木版印刷術の創始者としても後世に名を留めていた。『旧五代史』唐明宗紀長興3年2月甲子(12日)条に、中書門下の役所から石経(石に刻まれた儒教の経典)の文字から九経の版木を彫ることが上奏されており、これが馮道の指示とされていることから広まった伝説と考えられる。しかし、南宋葉夢得は著書『石林燕語』(巻8)で「世間では馮道が木版印刷を始めたと言っているが、間違いである。国子監における五経の出版を馮道が行ったというだけである」とこの説を否定している。実際、馮道より200年前の唐代から仏教の経典の木版印刷は始まっており、馮道が創始したということはあり得ない。後に木版印刷が盛んとなった時代になってから、かつて型破りな人生を送った馮道こそ印刷術の創始者にふさわしいとして仮託されたものであろう[1]

脚注

  1. 大木康『中国明末のメディア革命』(2009年刀水書房、ISBN 4887085060)21p-23p。

参考文献

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