李存勗

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テンプレート:基礎情報 中国君主 李 存勗(り そんきょく)は、五代後唐の初代皇帝

生涯

出生

突厥系沙陀族の出身。沙陀族の長・李克用の長男として生まれ、開平2年(908年)、父が病没した後を受けて太原で晋王に即位した。臨終に際して李克用は李存勗に対して三本の矢を与え、「わしが没した後に、三本の矢のうち最初の一本は幽州河北省東部)に割拠して王と自称した劉仁恭、もう一本は契丹の太祖耶律阿保機、最後の一本は後梁の太祖朱晃らをそれぞれ倒すのに使うべきである」と遺言したと言う。

亡父の言葉に従い、乾化3年(913年)には劉仁恭の権力を奪った劉守光を滅ぼして幽州を制圧し、契丹とは修好で臨み、その後は専ら後梁に対して激しい攻撃をかけた。

即位

後梁では年老いた朱晃の暗愚な政治に対する失望感が強まり、更に継承権を巡っての抗争から、朱晃は次男の郢王朱友珪に暗殺された。この内紛に乗じ李存勗は次々と弱体化した後梁の領土を奪い、923年にこれをついに滅ぼした。

同年に、の副都であった洛陽で皇帝に即位した李存勗は国号を「唐」と定めた。李存勗らの李姓(本姓は朱邪氏族)は唐からの賜姓であったので、その継承者との名目から唐を国号としたのである。後世の史家は唐と区分するため、一般に後唐と呼び習わしている。

同光2年(924年)には陝西に割拠して王となっていた李茂貞を降伏させ、同光3年(925年)には四川前蜀を滅ぼし、を統治する西川節度使に武将の孟知祥を任じた。やがて後唐は華北と四川を合わせた五代王朝の最大版図を実現した。

治世

武力により版図を拡大した荘宗は武将としては父以上の名将と讃えられたが、政治家としての素質は乏しく内政面(行政面)では腹心の孔謙に任せきりにし、人民からの過酷な搾取などの悪政が多かった。また、唐の玄宗と同様に演劇に戯れて、自らも李天下と称して芝居を演じたという。

このように荘宗は国号に唐を選ぶだけあって、唐の文化に対して強い憧れを持っていた。前述の通り洛陽に遷都し、晩唐の特徴であった宦官を重用した側近政治に偏っていった。

特に軍人の監察として宦官を用いたことは軍人たちの強い不満を買うことになった。その中で荘宗は酒と奢侈に溺れて政務を顧みなくなった。また有能な武将である枢密使郭崇韜太子でもある魏王李継岌四川討伐に従軍した。しかし、郭崇韜を快く思わない宦官が総大将の李継岌に讒言した。李継岌は父の荘宗にこのことを報告し、讒言を信じた荘宗は宦官馬彦珪を派遣し、郭崇韜とその子・郭廷晦の誅殺を命じた。引き続き、仮子李継麟も孔謙の讒言で誅殺した。同時に各地で不満が爆発し、謀反が相次いで起こった。

各地での反乱が大規模に発展し、同光4年(926年)には李克用の仮子であった李嗣源に軍を預けてその鎮圧に向かわせたが、逆に軍閥の軍人達によって李嗣源が皇帝に擁立されるに至った。補給路を断たれた洛陽は食料にも困るようになり孤立してしまう。最終的に荘宗は禁軍によって殺害された。その後、遺体は李嗣源によって雍陵に埋葬されたという。

宗室

后妃

兄弟

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