木多康昭

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木多 康昭(きた やすあき、1969年6月19日[1] - )は千葉県出身[1]漫画家血液型O型

鶴田謙二の影響を受けた線が細く写実的な絵柄と、過激な下ネタ毒舌を中心とした奇想天外なギャグ、時として対象への悪意がこもる大胆なパロディ、著名人への悪辣な罵言、作者の身近な人物の暴露ネタなどが特徴。小栗かずまた島袋光年つの丸ガモウひろしなどと交流があり、作中にも何度か登場する。

略歴

幕張連載まで

大学受験に3度失敗し、3浪目の頃から漫画家を志すようになる。約3年の間、アルバイトなどで生計を立てながら編集部への持ち込みや漫画賞への応募を重ね、1995年3月、「夜明け前」が第121回ホップ☆ステップ賞にて佳作を受賞。同年8月、集英社週刊少年ジャンプ増刊』において「仮面の告白」でデビュー。同年12月、「海に生くる人々」にて第43回赤塚賞佳作を受賞し、『週刊少年ジャンプ』での連載が決まる。

1996年2月、『週刊少年ジャンプ』で『幕張』を連載開始。当初は下ネタとパロディを中心としたギャグ漫画であったがやがて暴走し始め、同誌編集者、他の漫画家、そして自分自身を投影したキャラクターを汚れ役として多数出演させるようになる。当時の担当編集者であった瓶子吉久をはじめ各ジャンプ編集者のプライベートを虚実ない交ぜて暴露したり、ヒロミトレース画を用い、実名入りで「(芸が)寒い」と断言(後にクレームを受け、コミックス化の際には完全削除された)、同誌連載作品をちゃかすパロディを繰り返した揚げ句、1997年11月、作中で「やってられっか!!」とぶちまけ、巻末コメントに「俺は自由だ!!」との捨て台詞を残して終了する。本人は後年「あのとき辞めていなければ、『幕張』の代わりに(ブレイク前の)『遊☆戯☆王』が終わっていた」と語る。なお、担当編集者が同じ瓶子だった『遊☆戯☆王』には、瓶子経由で自分のアイデアをいくつか提供し、実際に採用され作中に使われたこともある。

マガジン移籍

約2年の後、『少年ジャンプ』との専属契約を解除して講談社に移籍。1999年7月、『週刊少年マガジン』において高校野球漫画『泣くようぐいす』の連載を開始。同じ野球部という舞台設定でありながら主人公たちがまったく野球をしなかった前作とは異なり、ギャグを大幅に織り交ぜつつもあくまで「野球漫画」として話が進んでいたが、その後やはりメインのストーリーから大きく脱線し始め、野球部員のはずの主人公がなぜか麻雀をしたり、ロボットになって敵組織(?)と戦うという展開を経て、2000年10月に打ち切りとなる。人気投票の結果は悪くはなかったが、同時期のマガジンで他の野球漫画が続々と連載を開始したため、その煽りを食った形となった。編集サイドへのあてつけとして打ち切り決定後も平然とストーリーを進め、新たなライバルを登場させたり、今後の展開の伏線を張ったりしながらも、最終回ではそれらが全て主人公の夢だったとする「夢オチ」で強引に締めくくった。

2002年2月、同誌に『平成義民伝説 代表人』を連載開始。当初の主人公は元SMAP森且行をモチーフとしており、他にも実在の芸能人がモデルとみられる人物を多数登場させたため、連載開始前から編集部内で危険性が指摘されていた。案の定、連載開始直後から各方面からクレームを受けることになり、連載開始からわずか数週で話の筋が当初意図していたと思われる方向からどんどん狂い出し、主人公が誰なのかすらもはっきりしない支離滅裂な展開となっていく。後年、この展開は当初から狙っていたものであり、連載が続いていれば各都道府県ごとの“代表人”たちを登場させるつもりだったと語っている。

途中から主人公となったキャラクターが放つ必殺技“大人の事情”は、同誌連載の藤沢とおると『少年ジャンプ』連載の冨樫義博が病気を理由に頻繁に休載するにも関わらず、編集部から何の咎めも受けていないという不条理を怒りに転化し、パンチに込めて放つというものであった。前者はほぼノーカットでコミックスに収録されたが、後者は完全にカットされた。

秋本治を思わせるキャラを登場させた回は31ページにも及び、ネームは通っていたにも関わらず原稿完成後に編集判断でボツとされ、その号は「作者急病のため休載」という扱いに。さらに連載開始時に登場したキャラクターたちが「なかったこと」にされたりしたため話の筋が繋がらなくなり、この迷走ぶりに読者人気も低迷。同年5月、わずか4ヶ月(2巻)で終了。真偽のほどは不明ながら、最終回では名誉毀損で訴えられた作者が法廷で無実を叫ぶという内容であった。同作品はその問題性ゆえかコミックスの発行部数が非常に少なく、現在では入手が困難となっている。

ちなみに次作『喧嘩商売』の単行本には、今では入手が極めて困難な本作の見開き広告スペースがあり、毎巻手を変え品を変え秋本治や冨樫義博へのおちょくりを続けている。第5巻では『超こち亀』に呼ばれなかった腹いせに「(元担当の)瓶子に呼ばれたら一度渋ってから承諾しようと原稿まで書いていた」と作中で語り(真偽は不明)、呼ばれた作家陣に対し「俺が漫画界でこち亀を一番読み返している」「あいつら本当は鳥山明のほうが好きなくせに」と漏らし、さらには「100巻までは一番読んでいた(100巻以降の作風を暗に批判しているようではあるが本人としては応援の言葉だという)」作中で主人公や自分自身を投影したキャラに言わせている。

ヤングマガジン移籍

その後丸3年間消息を絶つも、2005年6月、『週刊ヤングマガジン』にて『喧嘩商売』の連載を開始する。第1回目から「女子高生に詳しい島田先生」などの危険なフレーズを投入した(島袋本人の了解は取っていた)。作画にコンピューターを取り入れた。ネタに関しては過去のいきさつにより編集部のチェックが大幅に厳しくなっており、コミックス化の際には大幅に加筆している。

同作品の第1回のコメント欄で「自主規制に抗議して断筆していた」と語っているが真偽は不明。同作品の舞台が宇都宮であったことから、仕事場も足立区綾瀬から同地に移したのではないかと一時囁かれたが、後に同じくコメント欄で宇都宮には住んでいないと明かした。

2006年5月、突如ヤンマガ誌上から姿を消し、ファンを騒がせたが、3週のち連載を再開する。この件について木多は「ヤンマガ編集長が描きたいことを描かせてくれないため、連載を辞めるかどうかの話にまでなっていた」と述べた。その後は連載が進み、2008年には自身初の連載100回とコミックス10巻に到達している。

2006年6月、早稲田大学で行われたトークショーに出演。Wikipediaの自らの項目に触れ、さらには散々ネタにした島袋光年も登場した。かつて自身が在籍したジャンプについて「オタク化している」と持論を述べ、「各作家さんたちに文句があるわけではないが、あれが自分が子どもの頃に読んでいたジャンプと同じ雑誌とはとても思えない。」と語ってトークショーを締めている[2]

2010年9月に発売されたヤングマガジン40号にて『喧嘩商売』の第一部が終了。第二部の予定開始は2011年2月とされていたが大幅に遅れ、2013年12月発売のヤングマガジン2014年2・3合併号から連載が再開されると発表された[3]。尚、再開に合わせてタイトルが『喧嘩稼業』に変更される事になった[4]

作品リスト

連載

読切

  • 『仮面の告白』 - 『週刊少年ジャンプ』1995年 Summer Special
  • 『海に生くる人々』 - 『週刊少年ジャンプ』1996年 Winter Special
  • 『最下級編集 菅(ガースー)』 - 『ヤングマガジンGAG増刊 神回』(2013年11月1日発売)

アシスタント

  • 水元昭嗣 - 手塚賞赤塚賞同期受賞の木多、錠崎秋雄、島袋らと友人であった様子が『幕張』連載当時の木多の巻末コメントより伺える。
  • 宮田栄治 - 『幕張』から『喧嘩商売』休載に至るまでアシスタントを務めていた。『喧嘩稼業』としての再開後はアシスタントとして参加していない。
  • 松田望 - 独立後、パチスロ誌や実話誌、ヤングジャンプ漫革(現・月刊ヤングジャンプ)などで執筆。
  • 大沢俊太郎 - 『泣くようぐいす』中盤より最終回までアシスタントを務める。単行本5巻のあとがきにおいて妻子ありと記されていた。独立後、数年のブランクを経てスーパージャンプにて『ゴタ消し -示談交渉人 白井虎次郎-』を連載開始。その後、2011年1月6日より読売テレビ日本テレビ系にてテレビドラマ化される。ちなみに『喧嘩商売』の主人公である佐藤十兵衛の父親・佐藤俊太郎の名も彼から採っている。
  • 村上修護 - 『喧嘩商売』初期からのアシスタント。通称村上店長。木多のアシスタントと並行して某女性作家のアシスタントを務め、さらに交際にも至っていたが、単行本4巻の描き下ろしのページにて、女性作家との特殊な性癖を暴露される。この描き下ろし部分は村上本人には秘密裏に描かれており、単行本5巻巻末に暴露の顛末が描き下ろされた。後に村上は某女性作家と破局し、アシスタントとしても解雇されていたことを単行本10巻巻末で明らかにした。

脚注

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  1. 1.0 1.1 『週刊少年ジャンプ 1995年 Summer Special』494ページ
  2. 木多康昭トークライブ_まとめ
  3. テンプレート:Cite web
  4. テンプレート:Cite web