明石全登

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明石 全登/景盛(あかし たけのり[1]/かげもり、生没年不明)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将宇喜多氏の客将で、知行は3万3千石といわれる。宣教師を自分の屋敷に住まわせて保護するほどの熱烈なキリシタンであった。

生涯

保木城主・明石行雄(景親)の子として生まれる。備前明石氏(美作明石氏)の出身で、明石国造[2]の末裔という説もあるテンプレート:誰

宇喜多秀家軍師的存在で、慶長4年(1599年)にお家騒動宇喜多騒動)が起こって重臣の多くが出奔すると、執政として宇喜多家中を取り仕切った。翌慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで秀家が西軍に与すると、宇喜多勢8,000名を率いて先鋒を努め、福島正則を相手に善戦した。西軍敗走の際に田中吉政の家来・上坂万兵衛と接触したという記述がある。なお9月18日付けで、田中吉政は東近江の村々に石田三成、宇喜多秀家、島津惟新を捕らえるよう書状を配っている。

戦後、宇喜多氏が没落し浪人となると、キリシタン大名であり、母が明石一族である黒田孝高[3]の下で庇護されたといわれている。孝高の死後、息子の長政がキリスト教を禁止したため、柳川藩田中忠政を頼ったとされている。

慶長19年(1614年)、大坂の役が起こると豊臣方として参陣する。翌慶長20年(1615年)の夏の陣では伊達勢と交戦、同士討ち事件が起きている。天王寺・岡山の戦いで、天王寺口の友軍が壊滅したことを知ると、松平忠直の軍勢に突撃し姿を消す。その後の消息は不明で、戦死したとも南蛮に逃亡したとも言われており、死亡時期については諸説ある。

子孫

  • 秋田県比内町に明石全登の子孫と伝えられる一族がある。家伝によれば大阪落城後に仙台伊達政宗に保護される。しかし、幕府の詮議が厳しくなったので津軽に移動し、津軽信枚の保護を受けて弘前城内に匿われた。全登の三人の男子は弘前を離れて流浪の末に扇田にたどり着いて定住したと言われる。子孫と伝えられる明石家には全登から伝えられた仏像が残っている。元国際連合事務次長の明石康は同地の明石一族の出身で全登の子孫と伝えられている[4]

伝記

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脚注

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演じた俳優

映画

テレビドラマ

参考文献

  • 武光誠『関ヶ原 誰が大合戦を仕掛けたか』(PHP新書、2007年) ISBN 978-4-569-65938-1
  • 森本繁『明石掃部』(学研M文庫、2006年) ISBN 978-4-05-900453-0
  • 小林久三『明石掃部の謎ー神出鬼没のキリシタン大名』(PHP研究所、1997年) ISBN 978-4-569-55938-4
  • 野村敏雄『明石元二郎』(PHP文庫、2005年) ISBN 4-569-66403-2
  • 司馬遼太郎『坂の上の雲(六)』(文春文庫、1999年) ISBN 4-16-710581-0
  • 安藤英男『黒田如水』(学研M文庫、2001年) ISBN 978-4-05-901068-5
  • 高橋和島『黒田官兵衛』(人物文庫:学陽書房、2006年) ISBN 4-313-75217-X
  • 津本陽『宇喜多秀家』(文春文庫、2001年) ISBN 4-16-731450-9

関連項目

外部リンク

  • (全登)の読みは、テンプレート:要出典範囲
  • 明石に渡来した神話時代の一族、古代の明石国造は大倭国造の一族ともいわれる。
  • 孝高の父職隆の妻が明石氏。
  • 野添憲治編『秋田県の不思議事典』38ページ