明治法律学校

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明治法律学校(めいじほうりつがっこう)は、1881年(明治14年)1月、岸本辰雄らによって東京府に設立された私立法律学校である。この項目では後身たる専門学校令準拠の明治大学についても扱う。

概要

現在の明治大学の前身校である。司法省法学校出身者によって設立され、フランス法学を講じる仏法系学校であり、いわゆる「五大法律学校」の一つにかぞえられた。また自由民権運動と強い関わりを持ちつつ発展し、法典論争においては「実施断行論」の立場をとった。

沿革

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岸本辰雄の胸像 / 明治法律学校創立者の一人

仏法系学校として設立

大学南校を経て司法省明法寮でともに学び、司法省法学校の第一期卒業生となった岸本辰雄・宮城浩蔵矢代操の3名が中心となり、1880年12月、「法理を講究し其真諦を拡張」することを標榜して創立、翌1881年1月に開校された。

開校に際しては旧鳥取藩主池田輝知および旧島原藩主松平忠和の財政的援助を受け、また講師には留帰りの西園寺公望、司法省御雇教師の仏人G・A・アッペール、そして司法省法学校卒業生が多く参加するなど、当初からフランス流法学の影響下にあり、これを講じる学校として出発した。

東京法学校との抗争

したがって本校はもともと、政府公認の準官学的な法律学校として出発したはずであったが、当時高まりを見せていた自由民権運動の影響を受け急速に野党色を強めていき、特に自由党を支える人材を生むことになった。校舎となった旧松平忠和邸の三楽舎では、フランス革命の影響を受け自由と権利の拡張を主張する学生たちにより演説会が盛んに行われ、政府からは自由民権の牙城とみなされるようになった。この点、本校に対抗して設立された同じ仏法系の東京法学校が、司法省の強い影響下にあったのとは対照的であった。両校は学生の獲得をめぐって授業料値下げなどの競争・対立が繰り広げられ、ついには共倒れ寸前に至ったため、明治10年代末にようやく和議が成立した。

その後帝国大学(現東京大学)を中心としたドイツ流法学の台頭を背景に、1888年末には東京法学校・東京仏学校との間で、これに対抗して同じ仏法系学校として合併しようとする構想が起こったが、野党色の強い本校は結局これに参加しなかった(東京法学校・仏学校は合同して和仏法律学校となり、法政大学の前身となった)。

しかし1889年民法刑法の両法典の実施の可否をめぐる法典論争が起こると、本校は仏法学派として和仏法律学校と共同戦線を組み、英法系(帝国大学・東京法学院など)の実施延期論を批判し、法典実施断行運動を展開した。

学校組織の整備と明治大学への移行

組織面では、1886年には法律学部・行政学部の2学部を設置し、1887年には名誉校員制を設け(大木喬任鶴田皓箕作麟祥・名村泰蔵・ボアソナードが就任)、1888年の校長・教頭制度制定で岸本辰雄が初代校長に就任するなど整備が進み、1903年3月になって私立「明治大学」への改称が認可された。しかしこの時点では、制度上の大学(旧制大学)ではなく、専門学校令に基づく旧制専門学校となったにすぎず、名実ともに(大学令に準拠する)大学昇格を果たすのは1920年(大正9年)4月16日である。

校地の変遷と継承

学校の開業届は東京府麹町区十六番町(現東京都千代田区三番町)の宮城浩蔵宅であるが、後援者の松平忠和より提供を受けた同区有楽町数寄屋橋内の旧邸「三楽舎」を校舎として開校した。1886年12月には神田区駿河台南甲賀町(現千代田区神田駿河台一丁目)の新校舎に移転。駿河台校舎はその後の明治大学への改称・昇格を経て基本的には現在の明大駿河台キャンパスとして継承されている。なお有楽町の校地跡には「明治大学発祥の地」の碑が建立されている。

主な卒業生

関連文献

事典項目
単行書

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