昌徳宮

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テンプレート:Infobox 昌徳宮 (しょうとくきゅう、朝鮮語読み チャンドックン)は韓国ソウル特別市に所在する李氏朝鮮宮殿

概要

正宮である景福宮に対する離宮[1]として創建された。現在の韓国国内の宮殿の内、最も創建時の面影を残している宮殿であり、日本の梨本宮家から嫁ぎ、大韓帝国最後の皇太子李垠の妃となった李方子(まさこ)もこの宮殿で暮らした。

正門にあたる敦化門は大韓民国最古の門といわれる。また、敦化門をくぐった先にある錦川橋は大韓民国最古の橋とされる。儀式の執り行われた正殿の仁政殿、国王が執務をしていた宣政殿、王と王妃の寝殿だった大造殿など13棟の木造建築が現存している。宮殿の北に広がる李朝時代の王朝庭園である後苑秘苑とも呼ばれ、園内には多くのあずまやや人工池などがあり、韓国造園技術の極致といわれる。現在のものは1623年に再建された景観である。

歴史

1405年に、景福宮離宮として創建され、李氏朝鮮第9代成宗が正宮として使用している。文禄の役1592年)では、日本の軍勢が首都に迫る中、国王の宣祖一行が漢城から逃亡すると、治安が乱れて豊臣秀吉軍の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり景福宮昌慶宮、付属する庭園(秘苑)などと共に焼失した[2]。王朝末期の1868年に景福宮[3]が再建されると、昌徳宮は再び離宮として使用された。1907年純宗が大韓帝国の皇帝に即位すると宮殿として使用され、1910年日韓併合後も李王となった純宗の住まいとなった。その後朝鮮総督府により改築されている。

昌徳宮の建造物群は、1997年ユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。

建築

  • 敦化門(トンファムン) - 昌徳宮の正門(大門)、1412年当初の建築
  • 錦川橋 - 仁政門の前にある石橋
  • 仁政門 - 仁政殿に入って行く大門
  • 仁政殿(インジョンジョン) - 昌徳宮の中心的な場所で宮内外の公式行事が執り行われた
  • 宣政殿(ソンジョンジョン) - 王と臣下が議論をしたり、儒生の試験会場や宴会の場となるなど公式の執務の場であった
  • 熙政堂 - 王の日常生活の場
  • 大造殿(テジョジョン) - 王妃の生活空間
  • 御車庫 - 王と王妃が使った自動車とお御輿を保管している場所
  • 楽善斎 - 王の妾や女官が余生を送った目立たない場所
  • 水辣間(スラッカン) - 王室の台所[4]
  • 後苑 - 秘苑(ビウォン)と呼ばれ韓国の代表的な庭園
  • 金虎門 - 昌徳宮の西門

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。テンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/core

観光

以前は自然保護のため、ガイド付きツアーの時間のみ見学可であったが、現在は自由見学となっている。

関連項目

脚注

テンプレート:脚注ヘルプテンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:李氏朝鮮の宮闕

  1. 正宮が火災などに遭った際、王が移り住む宮殿
  2. 朝鮮王朝の正史朝鮮王朝実録(宣祖修正実録)』には民衆によって略奪・放火されたと明記されており[1]李廷馥の『四留斎集』や李恒福の『白沙集』にもその時の様子が記されている。因みに日本側記録『大徳寺文書』では国王が内裏に放火して逃亡したとある。また小西行長の一番隊に属した松浦鎮信の家臣吉野甚五左衛門の覚書には入城直前の「五月二日の夕暮れに都の方を望むと放火の煙が立ち上っている」「宮殿楼閣数々に、内裏々々に火を掛けて、上下万民ことごとく唐国さして落ちにける」と記録している。いずれにせよ日韓双方の記録が秀吉軍の入城を前に消失したとしている。したがって一部に存在する日本の小西行長勢によって放火されたとする主張は誤りである。
  3. 景福宮は正宮として再建されるまで約270年以上にわたり放置されたままであった
  4. 西洋式で、近代に改築されたらしい