日本の新左翼

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テンプレート:日本の新左翼 日本の新左翼は、日本新左翼と呼ばれる政治思想や政治運動、政治勢力のこと。

1960年代以降に欧米などの先進国と同様に、日本でも従来の日本共産党日本社会党などを「既成左翼」と呼んで批判し、より急進的な革命や暴力革命を掲げて、直接行動や実力闘争を重視した運動を展開した諸勢力が、特に大学生などを中心に台頭した。特に安保闘争ベトナム反戦運動などに大きな影響を与えたが、70年安保以降は内部の内ゲバや爆弾闘争などのテロリズムもあり、大衆の支持を失い影響力は低下した。

「新左翼」とは総称的な呼称で、多数の相互に批判し合う思想・立場・党派も含み、その定義や範囲は立場によっても変化する。一般には、反帝国主義、反共産党スターリン主義批判などの基本路線では一致していたが、イデオロギー的にはアナキズムマルクス主義レーニン主義トロツキズム毛沢東主義左翼共産主義など)、構造改革派などの幅をもつ。

概要

日本においては、ヨシフ・スターリンが創設したコミンテルン(第三インターナショナル)日本支部の系譜であった日本共産党による方針や、同党の二段階革命論及び一国社会主義論日本社会党平和革命論を拒否し、独自の社会主義運動を追求すると主張した。

コミンテルン系譜の共産党を、スターリン主義として批判する立場に立っているタイプは、「一国社会主義」を掲げるヨシフ・スターリンと敵対し、「世界革命」を主張したレフ・トロツキートロツキズム)の復権や、「真のマルクス・レーニン主義」あるいは「反スターリン主義」を思想的旗印にする(主に革命的共産主義者同盟系各派、あるいは共産主義者同盟系各派)。また、スターリン主義発生のルーツをレーニン主義にまで遡って批判する解放派は、「前衛党指導主義」を批判し、「大衆の自然発生性」を評価した「ローザ・ルクセンブルク主義」を掲げている。新左翼は、理想主義的ラジカリズムを掲げ、社会党・共産党の「議会革命」方針に「暴力革命」を対置・強調した。

新左翼の運動は、世界的に「スチューデント・パワー」が高揚した1968年を頂点に一定の大衆的支持を得たが、70年代に入り支持が離れていくにつれて、爆弾闘争などのテロリズムと激しい左翼運動内部の抗争(いわゆる内ゲバ)を繰り広げていくことになる。

また、共産主義が持つ「独裁主義体制」を批判し、共産主義的新左翼の側からは「反共的極左」と呼ばれる無政府主義アナキズム)が存在し、共産主義者と抗争を繰り返した。彼らは、カール・マルクスと敵対したミハイル・バクーニンの影響を受けている。

1999年の段階で、新左翼の活動家は警察調べで全国に約27000人ほどいると言われている[1]

なお、右翼団体(主に街宣右翼)と異なり日本の新左翼組織は「政治団体」として総務省に届け出をしていない組織が多い[2]政治資金規正法では、(1)「政治上の主義若しくは施策を推進し、支持し、又はこれに反対すること」、(2)「特定の公職の候補者を推薦し、支持し、又はこれに反対すること」[3]といった活動をしている組織は全て政治団体であり、届け出をしなければならないことになっている。

日本の新左翼の歴史

前史

スターリン批判とハンガリー動乱

1956年ソ連共産党第20回大会において、全ソ労評議長としてスターリンに仕えたニキータ・フルシチョフ党第1書記が、スターリンの独裁・個人崇拝・粛清を暴露し(スターリン批判)、国際共産主義運動の玉座から引き摺り下ろした。日本共産党をはじめとする西側の各共産党指導部は、この批判に対して無反応であった。しかし、各国共産党内のとりわけ青年・学生部分は重大事と受け止め、1956年のハンガリー動乱の衝撃によって、急進的な学生を中心にコミンテルン直流の共産党からの訣別が加速されることになった。日本でも、黒田寛一太田竜らが、それまで在籍した共産党から訣別して、1957年日本トロツキスト連盟(58年に革命的共産主義者同盟に改組)を結成した。しかし、トロツキスト連盟組織内部において、トロツキズムを受容し国際組織第四インターナショナルに加盟することを主張するグループ(太田竜、西京司ら)と、「トロツキズムを乗り越えた新しい体系=反スターリン主義による前衛党建設」を主張するグループ(黒田寛一、本多延嘉革命的共産主義者同盟全国委員会派)に分裂していく。

1960年代

ブントと1960年安保闘争

一方、同時期である1955年に日本共産党は第6回全国協議会(六全協)を開催し、中国革命に影響を受けた「農村から都市を包囲する」式の武装闘争路線を正式に放棄した。これに不満を持つ学生党員は、1958年共産主義者同盟(ブント)を結成し、「暴力革命」路線を掲げた。

1959年岸信介内閣が日米安全保障条約の永続化を目指すと、普段は政治と接点のない一般国民の間からも激しい反発の声が上がった。日本社会党・日本共産党が、突出した闘争で支持者が離れることを恐れて請願デモしか行わない中、共産主義者同盟(ブント)に結集した全日本学生自治会総連合は、国会突入などの実力行使で一部の国民から喝采を浴びた(60年安保闘争)。「闘わない既成左翼、闘う新左翼」とは、この頃新左翼の側から発生した表現である。

安保闘争は連日数十万人のデモが国会を包囲する未曾有の高揚を示したが、日米安全保障条約は成立。一方で岸内閣は総辞職する。共産主義者同盟(ブント)は「条約成立を阻止できなかった以上、運動は敗北であった」と総括し、四分五裂の分裂を開始することになる。

革共同全国委の分裂と革労協の形成

1963年革命的共産主義者同盟(革共同)の第3次分裂が起こり、いわゆる中核派革マル派が成立する。また、1965年には、日本社会党の青年組織である社会主義青年同盟の武装闘争派が公然たる分派として「解放派」を名乗り、1969年革命的労働者協会(社会党社青同解放派)(革労協)を結成した。

中核派と革労協が、大衆運動および実力行使を重視するのに対し、革マル派は組織形成と理論・党建設を重視するなど、路線が対極をなしていた。革マル派は「他党派の解体が自派の拡大、ひいては革命運動の前進につながる」といった論理で他党派の活動家を襲撃し、それに対して他党派も報復したため、次第に「内ゲバ」が激しくなった。

全共闘運動

日米安全保障条約は、10年ごとに更新されることになっており、1970年の更新が迫っていた時期に更新を阻止すべく、あるいは学生管理に抗議し(学園闘争)、あるいは1972年に迫った沖縄返還を問題視して、新左翼諸党派は、全学共闘会議(全共闘)に介入していく。全共闘はノンセクト・ラジカル(急進的無党派)色の強い運動だったが、運動に党派の力学が介入し、それに応じて党派の主導権争いが激しくなった。

1970年代

アナキストの新展開

アナキストは戦後は日本アナキスト連盟が存在したが、広報以外にさしたる活動もしておらず、個々の活動家やグループが各地に活動組織を形成していた。結社的、サークル的傾向の関東・東京のアナキストに対して、より活動的だったのは関西のアナキストであった。アナキストに多い小結社志向を越えて、1969年に黒色ブントと呼ばれた統一組織としてのアナキスト革命連合 (ARF) を結成し、対権力や対マルクス派新左翼諸派の中でも、精力的な組織的活動を展開した。

ブントの分裂

1970年、日米安全保障条約は自動更新され、学園闘争も当局側が勝利し、一般学生は急速に運動から離れて行った。学生運動においても、中軸的存在である共産主義者同盟(ブント)が、革命戦争路線の赤軍派を最左翼に、それと正反対の叛旗派情況派(後の遠方派)を最右翼とし、戦旗派(荒派)、烽火派、その他(神奈川県左派、南部地区委員会の合同による蜂起派(連合戦旗派)等)へと分裂し、四分五裂状態となる。

内ゲバ、連合赤軍、爆弾闘争

1972年以降、中核派革労協革マル派の内ゲバが約100人の死者を出すまでに激しくなった。また、赤軍派の流れをくむ連合赤軍が12人もの仲間を「総括」の名の下に殺す山岳ベース事件を起こし、最後にはあさま山荘事件を起こす。そのため一般学生の運動離れが決定的となる。地下に潜った一部の黒ヘルの過激グループは、東アジア反日武装戦線を結成し、爆弾闘争を計画、一部を実行し多数の死傷者をだした(三菱重工爆破事件など)。爆破計画の多くは、構成員の逮捕などにより、未遂に終わった。

その後

学生自治の伝統のある大学では、1990年代半ばまで新左翼が一定の影響力を残したが、近年では大学側が攻勢に出て排除される場合が多い。「自治会」側が大学側の攻勢にほとんど対抗しえていないのは、「内ゲバ」をこととする新左翼諸党派による大学の暴力支配(他党派の活動家やノンセクト活動家などを暴力的に排除することが日常的に行われていた)や新左翼自身のテロや殺人を行ってきた「負の歴史」によって、一般学生の支持を失っていることが最大の原因と思われる。

1990年代に入り、ソ連などの「社会主義国家」群崩壊によって、その内部事情が明らかになるにつれ、組織・運動から離れていった者も少なくない。21世紀に入ってからは高齢化という問題も浮上した。新左翼諸派はさらなる孤立化を防ぎ、若手の獲得のため非合法活動を控え、ソフトな合法活動に力を入れているのが最近のすう勢である。若手獲得・組織拡大の具体的方法には、セクト色を隠し労働組合や市民運動を通しての組織拡大、地方議会への進出、青年組織を再建しその拡大に重点を置くといった方法がある。中核派が、同派と関係のある「つくる会の教科書採択に反対する杉並親の会」を通して、2005年に反対運動を繰り広げたことや、2004年に開催された「11.7全国労働者総決起集会」で、過去最高の約2,350人を動員した(平成17年 警察白書より)ことなどはその代表例と言える。また、革マル派はセクト色を隠し、同派系の団体を通しての反戦運動・反基地運動に取り組んだり、同派と関係のない他団体が主催する集会に参加したりしている。2013年現在、主だった日本の新左翼党派は直接自党に加入させるよりも、まずは関連の深い下部組織に入会させるという路線を採っていることが多い。中核派には「NAZEN」、共産主義者同盟 (統一委員会)には「AWC日本連絡会議」、日本革命的共産主義者同盟 (JRCL)には「アジア連帯講座」といった組織がある。これらの組織は党本体とは異なり、年会費を収めるだけで入会できるパターンが多く、入会しやすくなっている。

地方議員を抱えている党派は中核派、日本労働党緑の党 (三橋派)市民の党(旧「MPD・平和と民主運動」「大衆党」「平和:市民」)、日本共産党(左派)(「人民の星」派)、旧共産主義労働者党など。社青同解放派や旧社会主義労働者党、旧マルクス主義青年同盟なども国政選挙や知事選挙に出馬したが、当選者を出すには至らなかった。現在では新左翼各派は独自の候補者を出馬させることは少なく、社民党などの既成左翼の候補者を支援することが多い(ただし、日本共産党を支持することは滅多にない)。

なお、新左翼が使用する基本的外国語は、ドイツ語だった。例、パルタイ、ブント、ケルン、ゲヴァルトetc。これはマルクスとエンゲルスがドイツ語を使用し、またマルクスと関係の深い哲学がヘーゲルをはじめ、ドイツ観念論ヘーゲル左派などドイツ系の哲学であり、原書がドイツ語だったことによる。英語の使用頻度が高くなるのは、日本赤軍などが国際テロ組織化してからである。新左翼における文法語学から、実用語学への転換ともいわれる。

新左翼からの転向

左翼から右翼へ転向する者は古今東西に存在するが、日本の新左翼にも共産主義を放棄して、新保守派へ転向する者が存在する(マルクス主義青年同盟民主統一同盟など。著名人では猪瀬直樹テリー伊藤山内昌之など)。また「行動する保守」の提唱者である西村修平は毛沢東の支持者であった。西村は左派の行動的手法を「行動する保守活動」に持ち込んだとされる。

新左翼運動から環境主義運動へ軸足を移す者も多い、いわゆる赤から緑へと言う傾向である。共産主義者同盟ブント)の戦旗日向派は市民団体ブントへと改称し、共産主義を放棄し環境保護NGOを名乗っている。共労党プロレタリア革命派は、自治・連帯・エコロジーをめざす政治グループ・蒼生と名称変更後、緑の党結党の中心的役割を果たした。消費者運動を経て、生活者ネットワークなど中道主義的党派を結成し議会に進出している潮流もある。

また、一部はヒッピー運動やポストモダン思想、ニューエイジ思想、スローライフ運動などの影響を受け、自己啓発セミナーオカルトスピリチュアリズム界にも進出した。このことがヤマギシ会オウム真理教などを台頭させる土壌作りを果たすことにもなったと見る向きもある(詳細については日本原住民論反日亡国論を参照)。ちなみに、過去に中核派、第四インターと二つのセクトを渡り歩き、現在は政治評論などを行っている新左翼活動家である村岡到は、ヤマギシ会を称賛する書籍を書いている[4]。また、ジャーナリストの斉藤貴男によると、1970年前後には、革命運動に傾倒し、挫折した全共闘の学生が「最後のユートピア」を求め、ヤマギシ会に大量に流入したという[5]

主な新左翼党派

1960年代は「5流13派」、それ以降は無数の党派が生まれた。5流とは、革共同系、共産同系、社青同革労協)系、構改派系(ソ連派も含まれる)、中国派系。1973年の警察白書では「極左暴力集団」は「5流22派」のセクトとノンセクトの小人数グループである黒ヘル集団[6]としたが、1974年の警察白書では中核派、革マル派、反帝学評系など主要セクトの列挙となり、従来の「何流何派」等の表現は無くなった[7]

革共同系

共産同系

社青同(革労協)系

構改派系

親中共派系

アナ革連(ARF)系

その他

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脚注

  1. はじめに 過激派集団 革マル派 見えてきたその正体(警察庁)警察庁ホームページ
  2. その他の政治団体一覧(3254団体)総務省公式サイトより。新左翼のセクトは文書内検索をかけても全く出てこない
  3. 政治団体とは総務省公式サイト
  4. ユートピアの模索 ヤマギシ会の到達点  村岡 到
  5. 斎藤貴男 『カルト資本主義 オカルトが支配する日本の企業社会』 316頁
  6. 昭和48年 警察白書 第7章
  7. 昭和49年 警察白書 第7章

出典

関連項目

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外部リンク