施餓鬼

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テンプレート:Sidebar 施餓鬼せがき)とは、仏教における法会の名称である。または、施餓鬼会(せがきえ)。

概説

訓読すれば「餓鬼に施す」と読めることからも分かるように、六道輪廻の世界にある凡夫の中でも、死後に特に餓鬼道に堕ちた衆生のために食べ物を布施し、その霊を供養する儀礼を指す。

法会の時期は、盂蘭盆として旧暦7月15日(中元)に行われるのが一般的である。日本におけるお盆の場合、お精霊さま(おしょらいさま)と呼ばれる各家の祖霊が、一年に一度、家の仏壇に還ってくるものとして、盆の期間中、盆供として毎日供物を供える。それと同時に、無縁仏となり、成仏できずに俗世をさまよう餓鬼にも施餓鬼棚(せがきだな)、餓鬼棚(がきだな)や精霊馬(しょうりょううま)を設ける風習がある。

さらに広義には、施す対象は餓鬼神に限らず、三界万霊十方至聖『大施餓鬼集類分解(原古志稽著)、立牌』にも及ぶ。 (上は三宝を供(くよう)し、下は万霊を済えば、其の福百倍なり。単に施鬼神食に局(かぎ)るべからず。後学、焉(こ)れを知れ。『大施餓鬼集類分解、施食の時節』)

また、万霊とは生魂をも含む。 (万霊というは、万は且(しばら)く大数を挙ぐ。衆生無辺なり。豈に啻(た)だ万のみならんや。霊は謂く、含霊、即ち有情なり。『釈要鈔』に云く、「含霊は即ち衆生の異目(べつめい)なり」と。『大施餓鬼集類分解、立牌』、

施というは、梵語には檀那、此には施と曰う。但だ鬼道の飢渇に施すのみにあらずして、上は十方の諸佛に供(くよう)し、下は六道の群生に施す。故に無遮の大会と名づく。又た施食と曰い、又た水陸会と曰う。『大施餓鬼集類分解、題目』)

但し、浄土真宗においては、施餓鬼会は行われない。

曹洞宗においては、俗に盂蘭盆会施餓鬼と言っているが、施す者と施される者の間に尊卑貴賤の差があると、厳に戒むべきものだとして、「施餓鬼会」を「施食会」(せじきえ)と改めて呼称している。

また、施餓鬼は盂蘭盆の時期に行われるのが通例となっているが、本来は特定の時期(つまり盂蘭盆)の時だけに限定して行われるものではない。これは、目連尊者の伝説と、阿難尊者の伝説が似ていることから、世間において誤解が広まったものとされている(後述)。

また、水死人の霊を弔うために川岸や舟の上で行う施餓鬼供養を「川施餓鬼」といい、夏の時期に川で行なわれる。

由来

目連の施餓鬼は「盂蘭盆経」によるといわれる。この経典によると、釈迦仏の十大弟子で神通第一と称される目連尊者が、神通力により亡き母の行方を探すと、餓鬼道に落ち、肉は痩せ衰え骨ばかりで地獄のような苦しみを得ていた。目連は神通力で母を供養しようとしたが食べ物はおろか、水も燃えてしまい飲食できない。目連尊者は釈迦に何とか母を救う手だてがないかたずねた。すると釈迦は『お前の母の罪はとても重い。生前は人に施さず自分勝手だったので餓鬼道に落ちた』として、『多くの僧が九十日間の雨季の修行を終える七月十五日に、ご馳走を用意して経を読誦し、心から供養しなさい。』と言った。目連が早速その通りにすると、目連の母親は餓鬼の苦しみから救われた。これが盂蘭盆の起源とされる(ただしこの経典は後世、中国において創作された偽経であるという説が有力である)。

これに対し、阿難の施餓鬼は「救抜焔口陀羅尼経」に依るものである。釈迦仏の十大弟子で多聞第一と称される阿難尊者が、静かな場所で坐禅瞑想していると、焔口(えんく)という餓鬼が現れた。痩せ衰えて喉は細く口から火を吐き、髪は乱れ目は奥で光る醜い餓鬼であった。その餓鬼が阿難に向かって『お前は三日後に死んで、私のように醜い餓鬼に生まれ変わるだろう』と言った。驚いた阿難が、どうしたらその苦難を逃れられるかと餓鬼に問うた。餓鬼は『それにはわれら餓鬼道にいる苦の衆生、あらゆる困苦の衆生に対して飲食を施し、仏・法・僧の三宝を供養すれば、汝の寿命はのび、我も又苦難を脱することができ、お前の寿命も延びるだろう』と言った。しかしそのような金銭がない阿難は、釈迦仏に助けを求めた。すると釈迦仏は『観世音菩薩の秘呪がある。一器の食物を供え、この『加持飲食陀羅尼」』(かじおんじきだらに)を唱えて加持すれば、その食べ物は無量の食物となり、一切の餓鬼は充分に空腹を満たされ、無量無数の苦難を救い、施主は寿命が延長し、その功徳により仏道を証得することができる』と言われた。阿難が早速その通りにすると、阿難の生命は延びて救われた。これが施餓鬼の起源とされる。

この2つの話が混同され、多くの寺院において盂蘭盆の時期に施餓鬼が行われるようになったといわれる。

関連文献

関連項目