承元の法難

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承元の法難(じょうげんのほうなん)は、法然ひきいる吉水教団が既存仏教教団より弾圧され、後鳥羽上皇によって専修念仏の停止(ちょうじ)と、法然の門弟4人の死罪、法然と親鸞ら中心的な門弟7人が流罪に処された事件。建永の法難(けんえいのほうなん)とも。

ただし、歴史的事実として確認されているのは、法然の流罪と門弟2名(住蓮房安楽房)の死罪だけであり、事件の背景・詳細な内容については議論がある。

概要

事件の発端

北嶺からの批判
元久元年(1204年)10月、北嶺(叡山[1])の衆徒は、専修念仏の停止(ちょうじ)を訴える決議を行う(「延暦寺奏状」)。彼らは、当時の天台座主真性に対して訴えを起こす。
「延暦寺奏状」
延暦寺三千大衆 法師等 誠惶誠恐謹言
天裁を蒙り一向専修の濫行を停止せられることを請う子細の状
一、弥陀念仏を以て別に宗を建てるべからずの事
一、一向専修の党類、神明に向背す不当の事
一、一向専修、倭漢の礼に快からざる事
一、諸教修行を捨てて専念弥陀仏が廣行流布す時節の未だ至らざる事
一、一向専修の輩、経に背き師に逆う事
一、一向専修の濫悪を停止して護国の諸宗を興隆せらるべき事
南都からの批判

元久2年(1205年)9月、南都の興福寺の僧徒から朝廷に対して吉水教団に対する提訴が行われ、翌月には改めて吉水教団に対する九箇条の過失(「興福寺奏状」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止を訴える[2]

「興福寺奏状」
興福寺僧網大法師等 誠惶誠恐謹言
殊に天裁を蒙り、永く沙門源空勧むるところの専修念仏の宗義を糺改せられんことを請ふの状右、謹んで案内を考ふるに一の沙門あり、世に法然と号す。念仏の宗を立てて、専修の行を勧む。その詞古師に似たりと雖もその心、多く本説に乖けり。ほぼその過を勘ふるに、略して九ヶ条あり。
九箇条の失の事
第一 新宗を立つる失
第二 新像を図する失
第三 釋尊を軽んずる失
第四 不善を妨ぐる失
第五 霊神に背く失
第六 浄土に暗き失
第七 念仏を誤る失
第八 釋衆を損ずる失
第九 国土を乱る失

法然の対応

元久元年(1204年)11月、叡山側の動きに対して、法然は、自戒の決意を示すべく記した「七箇条制誡」に門弟ら190名の署名を添えて延暦寺に送る。しかし、『一念往生義』を説く法本房行空や『六時礼讃』に節をつけて勤める法会で人気を博していた安楽房遵西が非難の的にされた。法然は行空を破門したものの、事態は収まらなかった。

朝廷の対応

南都北嶺による吉水教団に対する弾圧に対し、朝廷は、朝廷内部にも信者がいることもあり「法然の門弟の一部には不良行為を行う者もいるだろう」と比較的静観し、興福寺に対しては元久2年12月19日に法然の「門弟の浅智」を非難して師匠である法然を宥免する宣旨が出された。これに納得しない興福寺の衆徒は翌元久3年[3]2月に五師三綱の高僧を上洛させ、摂関家に対して法然らの処罰を働きかけた[4]。その結果、3月30日に遵西と行空を処罰することを確約した宣旨を出したところ、同日に法然が行空を破門にしたことから、興福寺側も一旦これを受け入れたため、その他の僧侶に対しては厳罰は処さずにいた。ところが、5月に入ると再び興福寺側から強い処分を望む意見が届けられ、朝廷では連日協議が続けられた。ところが興福寺奏状には「八宗同心の訴訟」であると高らかに謳っていたにも関わらず、先に訴えを起こした延暦寺でさえ共同行動の動きは見られず、当事者である興福寺側の意見が必ずしも一致していないことが明らかとなったために、朝廷の協議もうやむやのうちに終わった。朝廷が危惧した春日神木を伴う強訴もなく、6月には摂政に就任した近衛家実を祝するために興福寺別当らが上洛するなど、興福寺側も朝廷の回答遅延に反発するような動きは見られず、このまま事態は収拾されるかと思われた。そして、実際に法然らの流罪までに延暦寺や興福寺が何らかの具体的な行動を起こしたことを示す記録は残されていない。

転機

建永元年(1206年)、後鳥羽上皇熊野神社参詣の留守中に、上皇が寵愛する「松虫」(松虫姫)と「鈴虫」(鈴虫姫)という側近の女性が、御所から抜け出して「鹿ケ谷草庵」にて行われていた念仏法会に参加する。安楽房遵西住蓮房の『六時礼讃』の美声が、世を憂いていた松虫と鈴虫を魅了し出家を懇願する。安楽房住蓮房は、上皇の許可が無いため躊躇するものの、二人の直向さを受け、剃髪を行う。松虫姫と鈴虫姫は、白小袖白衣)に緋袴を履いた巫女装束の恰好のまま座り、安楽房住蓮房が手にしている剃刀によって長い黒髪が剃り落とされ、最後は2人とも白小袖(白衣)に緋袴を履いた巫女装束の恰好に頭を丸めた(丸刈り)姿になっていた。『愚管抄』によれば、更に彼女たちは安楽房の説法を聞くために彼らを上皇不在の御所に招き入れ、夜遅くなったからとしてそのまま御所に泊めたとされている。

法難

松虫と鈴虫が出家し尼僧となったことに加えて、男性を自分の不在中に御所内に泊めたことを知った後鳥羽上皇は憤怒し、建永2年[5]1207年)2月、専修念仏の停止を決定[6]。住蓮房・安楽房に死罪を言い渡し、住蓮房は六條河原において、安楽房は近江国馬渕にて処される[7]。その他に、西意善綽房・性願房の2名も死罪に処される[8]

同月28日、怒りの治まらない上皇は、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子を流罪に処した。法然は、土佐国番田(現、高知県)へ、親鸞は越後国国府(現、新潟県)へ配流される。 この時、法然・親鸞は僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」の俗名を与えられ、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)を与えられる[9]

しかし法然は土佐まで赴くことはなく、円証(九条兼実)[10]の庇護により、九条家領地の讃岐国(現、香川県)に配流地が変更され、讃岐で10ヶ月ほど布教する。

その後、法然に対し赦免[11]の宣旨が下った。しかし入洛は許されなかったため、摂津勝尾寺(大阪府)で滞在する。ようやく建暦元年(1211年)11月、法然に入洛の許可が下り、帰京できたものの、2ヵ月後の建暦2年(1212年1月25日、死去する。

建暦元年(1211年)11月、親鸞に対しても赦免の宣旨が下る。親鸞は、法然との再会を願うものの、時期的[12]に豪雪地帯の越後から京都へ戻ることが出来なかった。雪解けを待つ内に法然は亡くなり、師との再会は叶わないものと知る。親鸞は、子供が幼かったこともあり越後に留まることを決め、後には東国の布教にも注力することになる。

脚注

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参考文献

関連項目

  • 叡山…比叡山延暦寺
  • 興福寺奏状…通説では興福寺出身で当時笠置寺に居た貞慶によるものとされているが、森新之介は九箇条の失を掲げた本文と法然らの処分を求めた副状と呼ばれる部分は本来は別の人物によって書かれた2通の奏状が誤って1つの文書にされたものであり、興福寺内部は本文を執筆した貞慶らの集団と明確に法然の処罰を求めた副状を作成した集団に分かれていて、専修念仏に対する統一した意見が存在しなかったとする。
  • 元久3年…元久3年4月27日に、「建永」と改元する。
  • 五師三綱の上洛…興福寺奏状を2つの別の書状とみる森新之介は、この時興福寺に対応した摂関家の家司三条長兼の日記『三長記』の元久2年20・21日条より、貞慶の奏状が興福寺の総意で提出されたものでその内容に朝廷が応じる形で12月の宣旨が出されたと認識していた摂関家側と貞慶の奏状の存在を知らず興福寺の意見も聞かずに12月に宥免の宣旨が出されたと認識していた五師三綱側の間で話が噛み合わなかったことを指摘し、話を進めるうちに貞慶の奏状のことを知った五師三綱側は興福寺の内部不統一が発覚することを恐れて、最終的には遵西・行空の処罰で妥協せざるを得なかったとする。なお、森は興福寺奏状における貞慶の筆でない部分(いわゆる「副状」部分)はこの時に五師三綱側が出した奏状と推定する。
  • 建永2年…建永2年10月25日に、「承元」と改元する。
  • 専修念仏の停止…念仏停止令の存在については、日蓮編纂の「念仏者令追放宣旨御教書列五篇勘文状」所収の建保7年閏2月8日付官宣旨に記された「建永二年春、以厳制五箇条裁許官符」の文言及び『法然上人伝記』9巻本巻6上に記された「建永二年丁卯二月、念仏の行人に下さるゝ宣旨」の文言から建永2年2月と推定されている。ただし、上横手雅敬は前者は浄土宗攻撃のための編纂物でかつ太政官符の具体的内容の記述が無いこと、後者は法然礼讃のための著作であり、ともにその真実を伝えているとは言い難く、史実として確定できるのは、念仏停止令の宣下の見込みを伝える『明月記』の記事がある建永2年1月24日以後に停止令が出された可能性があるとする推定だけで、念仏停止令が実際に出されたのかも不明で、更に同令と延暦寺・興福寺の訴え、法然・親鸞の流罪の3つの出来事の関連性を同時代の史料から認めることは出来ないとする。一方、森新之介は何らかの宣旨・命令が出されたとするのは事実としながらも、「念仏停止」と「専修念仏者への制止」は別のものであると指摘し、後鳥羽上皇の命令は念仏停止令ではなく専修念仏者の問題行動を制止するためのものであり、法然の流罪は住蓮房・安楽房の行動を制止できなかったことが上皇に対する奏事不実とみなされたものとする。
  • 法然門人らの処刑…これは念仏行為が原因というよりも、後鳥羽上皇が側近女性と住蓮房・安楽房らが密通をしたと疑った可能性の方が高いとされる。なお、彼らの処刑については浄土宗側の記録にしか記されておらず、公家政権側の記録・日記類には記されていない(同時代の『愚管抄』が斬首の事実のみを記している)ため、上横手雅敬は上皇が法的手続ではなく側近に命じて私的に殺害させた可能性を示しているとし、森新之介はそもそも処刑を上皇の命令とする根拠は親鸞の『教行信証』後序にしか存在しないことから、住蓮房・安楽房の処刑は当時横行していた検非違使による恣意的な殺害であって、突然の両名の処刑を知った親鸞が朝廷内部の事情に通じないまま憶測で書いてしまった可能性を指摘している。
  • 善綽房(西意)・性願房の処刑…『歎異抄』や『法水分流記』によって知られることから、善綽房・性願房も法難による処刑者と解するのが通説であるが、同時代の『愚管抄』には処刑されたのは住蓮房・安楽房の2名と記されており、他の同時代史料にも善綽房・性願房の名前が登場しないことから、事実誤認や別の事件との混同の可能性が考えられる。
  • 法然門人の配流…親鸞ら法然門人の配流は『教行信証』後序・『歎異抄』などに書かれて古くから知られているが、諸記録から確認できる法然の配流と異なって死罪となった住蓮房・安楽房以外の門人の処罰を裏付ける記録は存在しない(なお、配流された門人を7名とするのは『歎異抄』によるものである)。喜田貞吉(「教行信証に関する疑問に就いて(第一回)」(1922))は法然以外に配流者があった事実はないとし、辻善之助(「教行信証後序問題 其一」(1922))は正式な処罰以外にも検非違使などによって京を追われたり地方に下った者もいたと推測する。坪井俊映(「浄土宗と真宗の論争」(初出不明:所載文献1982)は法難の3年前に故郷の筑後国に下った法然門人・弁長の行動を「配流」と表現していることを指摘して、地方下向を「配流」と表現する用法が存在した可能性を指摘する。森新之介は当時の越後権介藤原宗業(建永2年1月13日任命)が親鸞の伯父であることを指摘して、親鸞が法難を恐れて自主的に越後国に下ったとする(森、2013年、pp.305-306)。
  • 九条兼実…出家し「円証」と号する。実弟に、太政大臣藤原兼房天台座主慈円がいる。
  • 赦免…文献により異なる。承元2年(1207年)12月・承元4年(1210年)・建暦元年(1211年)11月と諸説存在する。
  • 建暦元年(1211年)11月…新暦で換算すると12月~1月。