徳川吉通

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テンプレート:基礎情報 武士 徳川 吉通(とくがわ よしみち)は、尾張尾張藩の第4代藩主

生涯

元禄2年(1689年)9月17日、徳川綱誠の10男として生まれる。幼名は藪太郎、後に吉郎、五郎太[1]

元禄12年(1699年)、父の綱誠が48歳で急死したため、その跡を継いで11歳で藩主となった。若年のため、叔父の松平義行が藩政を補佐した。宝永2年(1705年)、実母の本寿院を幕命で四谷邸に蟄居謹慎させる[2][3]

武術儒学神道を修め、尾張柳生9世を継承した。木曾林政の改革に挑むなど、名君の評価が高かった[4]

正徳3年(1713年)閏5月に尾張藩士二人が吐血頓死・自害する事件が起き、その月に尾張藩御連枝梁川藩主・松平義昌が逝去。その直後の7月21日蟄居謹慎させていた実母の本寿院を饗応した直後に発病、同月26日に薨去した。享年25(満23歳没)。家督は幼い嫡男・五郎太が継いだ。

将軍継嗣問題

正徳2年(1712年)、時の将軍徳川家宣は死の1ヶ月ほど前、新井白石を病床の枕元に呼び、後継について相談した。

「天下のことは私すべきではない。跡継ぎが無くはないが、幼いものを立てて世を騒がしくした例も多い。そこで余の跡は尾張の吉通殿に譲ってはどうか。ないしは鍋松(徳川家継)に継がせておき、尾張殿を西の丸に入れて後見とし、政治を任せるか。どちらがよいであろうか」

と言う家宣に対し、白石は

「ご立派なご配慮ではございますが、どちらも必ずしも適切とは存じませぬ。お跡継ぎが二、三に分れたときの派閥の争いが世を騒がせました例は、不幸にも過去に繰返されて参りました。上様(家宣)のお世継ぎに鍋松君がおありなのに尾張様の名があがれば、心無く二た手に動きだす者もできて参りましょう。御三家をはじめ御一門の方々、譜代の御家来がかくお揃いのうえ、守り立てますれば、若君が御代を継がれまして何のご懸念がありましょうか」

と答えた。さらに家宣が

「幼い者(家継)に万一のことがあれば」

と言うと、

「その為に神君(徳川家康)は、御三家をお立てになりました」

と答え、将軍継嗣は家継に決定した[5]

官歴

※日付=旧暦

家系

偏諱を与えた人物

吉通時代

脚注

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テンプレート:尾張徳川家

テンプレート:尾張藩主
  1. 五郎太尾張徳川家嫡男を表す幼名。4歳になるまでに兄たちが全員夭折したため、十男の吉通が嫡男扱いとなった証である
  2. 徳川実紀
  3. この時、生島新五郎の実弟生島大吉が本寿院邸に女装して入るという事件があった。大吉は一年間入牢後、発狂して死亡。テンプレート:要出典範囲
  4. 鸚鵡籠中記』などには大酒、大食など暗君ぶりも伝えられているが、吉通側近の近松茂矩は、『圓覺院様御伝二十五箇条』の中で吉通の節制した生活を記し、暗君の説を明確に否定している。
  5. 新井白石著『折りたく柴の記』。