平清宗
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平 清宗(たいら の きよむね)は、平安時代末期の武将である。平家の棟梁平宗盛の長子で、平清盛の孫にあたる。母は後白河法皇の寵妃・建春門院の同母妹である平清子。
略歴
承安2年(1172年)、3歳で伯母である建春門院の御給で叙爵し、従五位下となる。同時に元服して内昇殿、禁色を許されるという破格の待遇を受けている[1]。承安3年(1173年)、女院御所で行われた鵯合で後白河法皇は幼い清宗を膝に乗せ、人目も憚らず鍾愛したという。
治承4年(1180年)、11歳で従三位に昇叙。養和2年(1182年)、13歳で正三位。寿永2年(1183年)2月に平頼盛の娘との婚姻が成立している。
同年7月に平家一門はの源義仲上洛により安徳天皇とともに都を落ち、清宗もこれに従う。平家は各地で敗れ、元暦2年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いで敗北し、滅亡に至る。清宗は父の宗盛とともに入水を試みるが、父子は海から引き上げられて捕虜となる。
宗盛と共に都を引き回されたのち、5月に源義経により鎌倉へ護送される。6月、宗盛が頼朝と対面したのち、父子は再び京に護送される途中の6月21日、宗盛は近江国篠原宿(現在の滋賀県野洲市)で橘公長によって斬首され、清宗も同日に近江国野路口(同草津市)で堀景光に斬首された。享年17。首は京・六条河原にさらされた(『吾妻鏡』元暦二年六月廿一日・廿三日の条)[2]。
滋賀県草津市野路5丁目には清宗の胴塚[3]と伝わる石塔が、遠藤家邸宅の中庭にあり、毎年6月21日に「清宗忌」が行われ、代々保存供養されている。
経歴
※日付=旧暦
- 承安2年(1172年)1月5日:従五位下に叙位。
- 承安3年(1173年)1月5日:従五位上に昇叙。
- 承安4年(1174年)1月23日:侍従に任官。
- 安元2年(1175年)1月5日:正五位下に昇叙。侍従如元。
- 治承2年(1178年)1月28日:備前介兼任。
- 治承3年(1179年)
- 1月3日:従四位下に昇叙。侍従・備前介如元。
- 12月16日:従四位上に昇叙。侍従・備前介如元。
- 治承4年(1180年)5月30日:従三位に昇叙。侍従如元。
- 養和2年(1182年)4月9日:正三位に昇叙。侍従如元。
- 寿永2年(1183年)
- 1月22日:右衛門督に転任。
- 8月6日:解官。