島野修

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テンプレート:Infobox baseball player 島野 修(しまの おさむ、1950年6月2日 - 2010年5月8日)は、神奈川県横浜市出身のプロ野球選手投手)、スーツアクター

テンプレート:Byからテンプレート:Byの17年間に渡り、阪急ブレーブス→オリックス・ブレーブス→オリックス・ブルーウェーブ球団マスコット「ブレービー」→「ネッピー」のスーツアクターとして活躍した。1976年から1978年の登録名は島野 修一[1]

実弟である島野直幸は東芝小向(現・東芝ブレイブサンダース神奈川)の元バスケットボール選手。

経歴・人物

アマチュア時代

中学から野球を始める。この頃すでに、前任校で柴田勲を育てた実績のある教師が素質を認めていた。島野は家が裕福ではなかったため新聞配達のアルバイトをしており、特待生なら授業料が免除されるという理由で神奈川の強豪、武相高校に進学した。1967年、2年の夏の県大会ではエースとして6試合に登板し4完封、決勝で日大高を降し、甲子園に出場。1回戦では若狭乗替寿好投手との投げ合いを制し、被安打2奪三振12で勝利。しかし2回戦では土佐萩野友康投手に完封負けを喫する。翌年春の関東地区大会では4試合で33回を投げ自責点1、夏の県予選でも6試合で奪三振55、防御率0.37の成績をあげる。また準々決勝ではノーヒットノーランを達成し、決勝で鎌倉学園に完封勝ちした時にはナインから胴上げされた。しかし夏の甲子園では、初戦(2回戦)で、この大会に準優勝した広陵の宇根洋介投手に抑えられ敗退している。

1968年のドラフト会議では、指名順が先だった阪神タイガース読売ジャイアンツ(以下、巨人)入りを希望していた田淵幸一を1位指名。巨人は田淵が他球団に指名された場合は星野仙一を指名する予定だったが、当時の巨人は投手陣が充実していたため「即戦力より素質のある高校生を」との川上哲治監督の希望により島野を指名した。巨人からの指名を確信していた星野はこの時「ホシとシマを間違えたんじゃないのか」と言ったとされる[2](星野はこの年中日ドラゴンズの1位指名で入団)。島野は当時としては破格の契約金1500万円、年俸180万円で入団する。

プロ野球選手時代

巨人入団後は故障に悩み(元々高校時代の投げすぎで、肩を痛めてしまっていた)3年目の1971年にプロ初登板初勝利を挙げるが、それ以降は敗戦処理が多くなる。1974年秋のニューヨーク・メッツとの親善試合で2勝を挙げ、翌年春にベロビーチで行われたオープン戦ではアトランタ・ブレーブスを完封。これが長嶋茂雄監督の目に留まり開幕3戦目の先発に抜擢され、しばらく先発ローテーションの一角を担うが結果を残せなかった。

1976年阪急ブレーブスに移籍したが在籍3年間で1軍登板はなく、1978年に現役を引退した。

マスコット時代

引退後1年間は打撃投手として球団に残ったが退団し、芦屋市スナックを開いた。しかし1981年3月に、球団幹部の命を受けた当時の選手会長・加藤英司が島野を訪ね、球団マスコット「ブレービー」のマスコット人形着ぐるみ)役就任の要請をする。マスコット導入[3]に当たり酒席での明るさを覚えていた幹部が、島野が適役だと思い立ったためだった。その場で即断り、後日正式に断るつもりで球団事務所を訪れたところメジャーリーグ各球団のマスコットの活躍、特にサンディエゴ・パドレスの「フェイマスチキン」をビデオで見せられ、さらにファンサービス担当者の「野球を知っていないとできない仕事だよ」との言葉に「お客さんが少しでも増えるなら」と引き受ける決心をつけた。

人形劇団などで特訓し、1981年4月11日阪急西宮球場でブレービーはデビューした。たちまち人気者となって、阪急電車のホームや車両先頭などにイラストが使われるようになった。ところが1ヶ月後、東京新聞に、「ぬいぐるみ着てグラウンドに帰った男の夢」「島野修投手(巨人-阪急)の野球人生」「いま『道化』でエースに」という見出しの記事[4]が掲載された。記事が「巨人のドラフト1位の期待を裏切った選手の“転落”ぶり」を伝えようというスタンスであったために、掲載以来、島野に対して“落ちぶれた”姿を嘲るヤジが投げつけられるようになった。更に、シーズン終了後の11月には、かつて島野をドラフト1位指名した巨人の親会社・読売新聞の紙面にも「ドラフトの星 人生流転」「ファンのため“道化役” プライドは心の中に…」と、ネガティブな記事[5]が載った。島野は悩んだが、ある日球場近くの食堂でブレービーが楽しかったとしゃべる親子の会話を聞き迷いが吹っ切れた。以後、ファンに楽しんでもらえるようなパフォーマンスを演じ続け、広く愛されるようになった[6]

1989年には球団が阪急からオリックスに譲渡され(球団名はオリックス・ブレーブスに変更)、1991年には球団愛称がブルーウェーブへ変更された事でマスコットもブレービーから「ネッピー」となったが新しい本拠地のグリーンスタジアム神戸でも引き続きマスコットの中に入った。1996年6月15日、札幌・円山球場で行われたロッテ戦で1000試合出場を達成しイチローから祝辞を受けている。

スーツアクターは重さ10キロ以上の衣装を身に着けながら様々なパフォーマンスを行うため大変な重労働で、夏場は1試合で体重が2~3キロ減ることもあったという。日当は三万円だった。また激しいパフォーマンスにより怪我も絶えず、中でも1993年7月21日神戸で初のオールスター戦が行われた際、バギーカーを運転しながら踏み台をジャンプするアトラクションで転倒し肋骨を3本折るアクシデントに見舞われた。寝返りも打てないほどであったが後半戦ではコルセットを3枚巻き、痛みの少ない左手の動きを強調して出場し続けた[7]

身体の動きが悪くなったため1998年シーズン終了で引退するまでの1175試合を1試合も欠かさずに演じるなど、日本のマスコットキャラクター演技者の草分けとなった。その存在は、現在も他球団のマスコット担当者から「島野さんのネッピーのようになりたい」と崇められるほどである。引退時に純パの会からその功績を称えられ、純パ賞を与えられた。

その後もオリックス球団職員として勤務し野球教室やコミュニティー活動などを担当していたが、2004年3月31日に病気療養のため退職した。

2010年5月8日脳出血のため西宮市内の病院で死去。満59歳没。島野が死去した2010年を最後にオリックスはマスコットの変更を発表、ネッピーも勇退することになった。

詳細情報

年度別投手成績

テンプレート:By2 巨人 1 0 0 0 0 1 0 -- -- 1.000 18 4.0 5 0 1 0 0 1 1 0 2 2 4.50 1.50
テンプレート:By2 9 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 71 16.0 14 1 9 0 0 12 2 0 8 5 2.81 1.44
テンプレート:By2 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 4 1.0 0 0 1 0 0 1 0 0 0 0 0.00 1.00
テンプレート:By2 13 7 1 0 0 0 3 0 -- .000 167 36.1 52 9 11 1 1 9 0 0 26 25 6.25 1.73
通算:4年 24 8 1 0 0 1 4 0 -- .200 260 57.1 71 10 22 1 1 23 3 0 36 32 5.05 1.62

記録

背番号

  • 22 (1969年 - 1975年)
  • 15 (1976年)
  • 23 (1977年)
  • 56 (1978年)

登録名

  • 島野 修 (しまの おさむ、1969年 - 1975年)
  • 島野 修一 (1976年 - 1978年)

関連書籍

  • ブレービーとネッピーを演じた島野を主人公にした物語が、児童書『それゆけネッピー! プロ野球マスコットにかけたゆめ』(花木聡・作、西村緋祿司・絵、1997年、くもん出版、ISBN 477430140X)として出版されている。

参考資料

  • ベースボールマガジン社『週刊ベースボール』2008年9月22日号 「ブレービー物語 プロ野球マスコットにかけた夢」32-33ページ
  • 『ドラフト1位 9人の光と影』(澤宮優著 河出書房新社 2008年刊)島野の人生を綴った最後のロングインタビューを収録。

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:読売ジャイアンツ1968年ドラフト指名選手
  1. 『阪急ブレーブス黄金の歴史 よみがえる勇者の記憶 1936 - 1988』 ベースボール・マガジン社、2011年、108頁。
  2. 週刊ベースボール2013年12月2日号 P36
  3. 日本プロ野球界において、着ぐるみ式の球団マスコットはヤクルトスワローズ1978年1979年頃には既に導入している。その後、1980年日本ハムファイターズが「ギョロタン」を導入している。
  4. こちら特報部 1981年5月5日東京新聞
  5. 1981年11月19日読売新聞夕刊
  6. 巨人ドラ1位男、西宮球場で第2の“初登板”スポニチ
  7. 「◎<編集委員いんたびゅー>球団マスコットの草分け 島野修さん/球場の楽しさ伝えたい/ブレービーとネッピー18年」2002年2月11日神戸新聞