島津継豊

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島津 継豊(しまづ つぐとよ)は、江戸時代島津氏第22代当主。薩摩藩の第5代藩主。

生涯

元禄14年(1701年)12月、島津吉貴の長男として生まれた。正徳5年(1715年)4月5日、当時7歳の第7代将軍徳川家継)より、「松平」の名字と偏(「継」の一字)を与えられ、初名の忠休(ただやす)から継豊(「松平大隅守継豊」)に改名[1]享保6年(1721年)6月、父・吉貴の隠居に伴って家督を継ぎ、5代目の藩主となる。同年12月、左近衛少将に叙任する。享保14年(1729年)には従四位下。左近衛中将を叙任した。元文2年(1737年)3月、四弟の忠紀越前家を再興させた。延享元年(1744年)5月、同じく七弟の忠卿に断絶した支族和泉家の門跡を継がせて、再興させた。なお、この家を「今代の和泉家」という意味で今和泉家という。

元文3年(1738年)に藩主が嗣子なくして死去したときに藩主を輩出する家格として一門家を新設。当時、家格一所持だった同母弟の垂水島津家当主島津貴儔や、次男の加治木家当主久門をこの家格とする。

当初、継豊は毛利吉元の娘を正室としていたが、彼女が早世した後に第8代将軍・徳川吉宗の斡旋もあって、第5代将軍・徳川綱吉の養女・竹姫と再婚した。竹姫は吉宗と恋愛関係があるのではないかという憶測があり、継豊の父・吉貴はじめ薩摩藩では好意的にはとっていなかったという。しかし、吉貴の友人である老中・松平乗邑の斡旋もあって、継豊には既に側室のお嘉久(渋谷氏)との間に嫡男が生まれていることから、竹姫との間に子が生まれても嫡子としないなど様々な条件をつけた上で受け入れたという。

延享3年(1746年)11月、長男・宗信に家督を譲って隠居したが、その後藩主となった宗信と次男・重年が継豊に先立って死に、孫(重年の子)である島津重豪(初めは忠洪)が11歳で8代目の藩主となったため、自身も病弱の身を押し、その後見を行った。

宝暦10年(1760年)9月、60歳で死去。この年は徳川家治が第10代将軍となった年(死去から半年ほど前)であり、当時としてはかなりの長寿であったといえる。

補注

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テンプレート:島津氏歴代当主

テンプレート:薩摩藩主
  1. 村川浩平「松平氏下賜の授受具体像と基本的性格」『日本近世武家政権論』185~189頁。尚、(詳しい事情は不明だが)継豊の代からの歴代藩主は最後の藩主・茂久(忠義)が使用するまで通字の「久」や「貴」を避けるようになっている。