島津吉貴

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島津 吉貴(しまづ よしたか)は、江戸時代中期の島津氏第21代当主。薩摩藩の第4代藩主

生涯

延宝3年(1675年)9月に鹿児島城で誕生。ただし、父が再婚して間もない頃[1]の誕生だったためか後室の鶴姫(吉良義央長女、上杉綱憲養女)や世間を憚り、曾祖父・島津光久の子供達と共に育てられる[2]元禄2年(1689年)、将軍徳川綱吉から、「松平」の名字と偏(「吉」の一字)を与えられ、初名の忠竹(ただたけ)から吉貴(「松平修理大夫吉貴」、「貴」は父・綱貴の偏諱)に改名[3]宝永元年(1704年)、父の死により家督を継ぐ。宝永7年(1710年)、第6代将軍・徳川家宣に対して琉球慶賀使を聘礼させた。享保6年(1721年)、長男の継豊に家督を譲って隠居する。後に継豊が徳川吉宗養女・竹姫と再婚させられそうになったときには反対派の筆頭であったとも言われる[4]。延享4年(1747年)10月、73歳で没した。

吉貴はそれまであった加治木島津家垂水島津家に加え自分の息子達に越前家(家祖は四男忠紀)、今和泉島津家(家祖は七男忠卿)と言う分家を作らせ、この4分家のみが本家に後継者がいない場合に藩主を出せる家系とした。江戸幕府御三家や他の「支藩」にも似た体制だが、他藩ではこのような有力分家は「支藩」にするのに対し、薩摩藩では「私領主」の扱いで対外的には家臣と変わらなかったのは大きな特徴である。

補注

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テンプレート:島津氏歴代当主

テンプレート:薩摩藩主
  1. 鶴姫との婚儀は延宝3年2月29日(1675年3月25日)
  2. 参照「薩藩旧記雑録 追録」
  3. 参照「島津氏への松平氏下賜」『日本近世武家政権論』村川浩平著 ISBN 4-8231-0528-1
  4. むしろ吉貴は賛成派の筆頭だったという意見もある。参照『徳川将軍家の結婚』山本博文著 ISBN 978-4166604807