山野辺義忠

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テンプレート:基礎情報 武士 山野辺 義忠(やまのべ よしただ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将最上氏の一門。後に水戸藩家老職となった。

生涯

天正16年(1588年)、最上義光の四男として生まれる。母の名や出身は不明だが、現在の大石田町深堀郷士の娘という伝承がある。[1]

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの直前に徳川家康の人質として預けられる。戦後帰国し、翌年、14歳で山野辺19,300石の城主となり、山野辺氏の名跡を継いだ。山野辺に入った義忠は、山野辺城の拡張改修を始め、城下町の建設と市の開設、釣樋堰に見られるような治水事業、神社仏閣や交通網の整備を行い、善政に努めた。

元和3年(1617年)、兄の家親が死去した後、家親の子であり義忠の甥にあたる義俊が当主となるも、『最上氏系図』(『寛政重修諸家譜』)では、「家信若年にして国政を聴く事を得ず。しかのみならず常に酒色を好みて宴楽にふけり、家老これを諌むといえどもきかざるにより、家臣大半は叔父義忠をして家督たらしめんことをねがう」と批判されるほど、人望・実力が無かったため、鮭延秀綱楯岡光直等、多くの家臣団から家親の後継者候補として擁立された。

これにより、最上氏は義俊派と義忠派に分裂して、後に最上騒動と呼ばれる内紛を引き起こすに至った。江戸幕府は義俊方の松根光広を追放処分とし、山形藩内の融和を求めるも、ほとんどの家臣が義俊への協力を拒否した。これが原因で元和8年(1622年)8月に幕命によって改易されることとなった。義忠もその責を負って備前国岡山に流罪となり、池田忠雄にその身柄を預けられた。岡山には2人の子息を含め16人の近臣が付き従い、34歳から46歳までの12年間を幽閉のなかで送った。

寛永10年(1633年)9月、徳川家光の命により水戸藩主徳川頼房にその身柄を預けられ、1万石を得て水戸藩家老職となった。そして世子光圀の教育係も務めている。光圀の代になった寛文3年(1663年)9月、隠居して仏門に入り道慶と号した。翌寛文4年(1664年)12月16日死去。享年77。義光の男子の中で、唯一天寿を全うした。

子の義堅も光圀に仕え、子孫は代々家老職に就いた。御附家老中山氏に次ぐ禄高を持った山野辺氏であったが、最上騒動の経験から、江戸後期、1820年代後半(文政年間)までは、主に朝廷や将軍などへの儀礼を行い、藩政には大きく携わらなかったという。

脚注

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参考資料

テンプレート:水戸藩家老 山野辺家
  1. 後藤嘉一『私説・やまのべ風土記』