小笠原忠真

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小笠原 忠真(おがさわら ただざね・忠眞慶長元年2月28日1596年3月26日) - 寛文7年10月18日1667年12月3日))は、江戸時代初期の大名信濃松本藩2代藩主、播磨明石藩主、豊前小倉藩初代藩主。

出自

信濃松本藩初代藩主・小笠原秀政の次男。母は登久姫松平信康の娘)。正室は姫路藩主・本多忠政の娘(徳川家康の養女)・亀姫。子に長安(長男)、長宣(次男)、忠雄(三男)、真方(四男)、坂牧忠増(五男)、長弘(六男)、宝光院黒田光之正室)、嘉禰(水戸支流松平頼元正室)、鍋姫、千代姫、姫松。養女に繁姫蜂須賀忠英正室)。弟に忠知豊後杵築藩三河吉田藩主)など。幼名は春松丸。徳川家康の曾孫。官位は従四位下、侍従、左近将監。

生涯

徳川秀忠から偏諱を授かって忠政と名乗り、晩年に忠真と名を変えた。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で父と長兄・忠脩が戦死したため、総領家の家督を相続することとなり、信濃松本8万石を領した。また、忠脩未亡人の亀姫を正室とした。

後に播磨明石10万石を経て、豊前小倉15万石に移封された。

前小倉藩主39万石の細川忠利は義兄弟である。

島原の乱の際には長崎守備の任を果たした。剣豪・宮本武蔵が最も長く仕えたといわれる。

大名茶人でもあり、同地の茶湯隆盛の基盤を築いた。上野焼の育成に尽力した外、茶人の古市了和を召し抱えて小笠原家茶道古流を興した。

墓所は福岡県北九州市小倉北区の広寿山福聚寺。元和5年、黄檗宗の開祖隠元隆琦の高弟即非如一を招き、建立した。

糠漬けを好み、小倉城入封の際にも、ぬか床を持ち込み、城下の人々にもぬか漬けを奨励した影響で、現代に至るまで、旧城下の小倉では各家に代々受け継がれた「百年床」というぬか床があるほどである[1]

関連項目

参考文献

  • 『城下町小倉の歴史』 長崎街道城下町の会
  • 『原色茶道辞典』淡交社

参照

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