小笠原忠脩

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テンプレート:基礎情報 武士 小笠原 忠脩(おがさわら ただなが)は、江戸時代初期の武将信濃松本藩の世嗣。小笠原秀政の長男。徳川家康の曾孫に当たる。

元服のとき、第2代将軍・徳川秀忠から偏諱を受けて忠脩と名乗った。慶長12年(1607年)、出家した父から家督を譲られる。

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では小笠原軍を率いて出陣したが、このときの出陣で小笠原軍は軍費に窮し、困り果てたと言われている。翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では父が小笠原軍を率いて出陣した。このとき、忠脩は松本城の守備を任されていたが、幕府に無断で出陣し、父と合流した。これは一つ間違えれば、家康の曾孫といえども許される行為ではないが、家康は処罰も恐れずに出陣してきた忠脩の勇気と決断力を大いに評価し、従軍を許したという。そして天王寺・岡山の戦いで父と共に豊臣軍と戦って、敗れて戦死した。享年22。

小笠原氏の家督は、長男の長次が幼年であったため、弟の忠真が継ぐこととなった。忠真はまた、忠脩の正室であった長次の母亀姫と結婚した。

テンプレート:小笠原氏宗家歴代当主