小山秀綱

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テンプレート:基礎情報 武士 小山 秀綱(おやま ひでつな)は小山氏の第18代当主。小山高朝の長男。初めは父・高朝の1字を取って小山氏朝(- うじとも)、のち氏秀(うじひで)と名乗る。双方の「氏」の字はそれまでの慣例に倣い古河公方足利氏より偏諱を受けたものと思われる。「秀綱」はその後に名乗ったである。

生涯

永禄3年(1560年)頃に家督を継ぐ。この頃の関東は足利藤氏(古河公方足利晴氏嫡男)を擁し、上杉憲政より関東管領を受け継いだ上杉謙信足利義氏(藤氏の異母弟・生母は北条氏康の異母妹)を擁する北条氏康の二大勢力の狭間にあった。秀綱は永禄4年(1561年)上杉謙信による北条氏小田原城攻撃に参加するが、永禄6年(1563年)には北条氏に内応。その翌年に居城の祇園城を謙信に攻められて降伏。更にその翌年には再度北条氏に通じるなど、小山氏の存続のために両陣営を度々移り変わった。このため、早くから北条氏側についていた弟の結城晴朝と度々争っていたという。

天正3年(1575年)に居城の祇園城を北条氏照に攻められたが、籠城してこれをしのいでいる。このときすでに北条氏から離反していた晴朝や近隣の宇都宮広綱佐竹義重の協力のもと、北条氏政に和議を申し入れたが断固として聞き入れられなかった(『小山市史』)。 翌天正4年(1576年)に再び攻め込まれると、祇園城を開城し、嫡子伊勢千代丸(後の政種)とともに佐竹義重のもとへ身を寄せた。その後、祇園城は北条氏の直轄領として北関東攻略の拠点となっている。

その後、佐竹義重の協力の下、祇園城奪還を試みるものの、天正9年(1581年)には嫡子政種が戦死してしまうなど、思うようには進まなかった。

天正10年(1582年)5月18日になると、織田信長惣無事令により、信長の家臣である滝川一益の仲介の下、北条氏照から祇園城を返還される。しかし、この和睦には北条氏への帰属が条件として含まれており、北条氏の家臣が小山に滞在するなど、以前のような権力を持つことはできなかった。

そのため、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、北条方として参陣せざるを得ず、豊臣秀吉によって改易された。旧小山氏領は弟である晴朝に与えられ、秀綱は晴朝を頼ることとなり、庶長子秀広は結城氏の重臣に迎えられた。だが、関ヶ原の戦い直後に秀広が病死したため、秀綱は結城氏の越前移封には従わずに隠退して程なく病死したという。これにより戦国大名としての小山氏は滅亡した(家督は秀広の子の秀恒が継いだ)。

偏諱を受けた人物


テンプレート:小山氏