室生寺

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テンプレート:日本の寺院 室生寺(むろうじ)は、奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派大本山の寺院。山号を宀一山(べんいちさん)と号する。開基(創立者)は賢憬(賢璟)、本尊釈迦如来である。奈良盆地の東方、三重県境に近い室生の地にある山岳寺院である。宇陀川の支流室生川の北岸にある室生山の山麓から中腹に堂塔が散在する。平安時代前期の建築や仏像を伝え、境内はシャクナゲの名所としても知られる。女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名がある。なお、山号の「宀一」は「室」のうかんむりと「生」の最後の一画だという。仏塔古寺十八尊第十八番。

歴史

天武天皇9年(680年)、役小角(役行者)の草創、空海の中興という伝承もあるが、記録で確認できる限りでは、奈良時代最末期の草創と思われる。室生寺の東方約1キロのところには竜神を祀る室生竜穴(りゅうけつ)神社があるが、室生寺の草創にも竜神が関係している。

続日本紀』や『宀一山年分度者奏状』(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)によると、奈良時代末期の宝亀年間(770年-781年)、時の東宮・山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒のため、室生の地において延寿の法を修したところ、竜神の力で見事に回復したので、興福寺の僧・賢憬(賢璟)が朝廷の命でここに寺院を造ることになったという。賢璟は延暦12年(793年)没しており、造営は同じ興福寺の僧である弟子の修円に引き継がれた。修円は承和2年(835年)に没しているが、現存の室生寺の堂塔のうち、この時期(9世紀前半)にまでさかのぼると見られるのは五重塔のみであり、現在のような伽藍が整うまでには相当の年数を要したものと思われる。

草創にかかわった2人の人物が興福寺僧であった関係から、室生寺は長らく興福寺との関係が深かったが、時代は下って江戸時代元禄11年(1698年)、興福寺の法相宗から独立して、真言宗寺院となった。女人の入山が許されたことから「女人高野」と呼ばれ、これは室生寺の代名詞にもなっている。近世には5代将軍徳川綱吉の母桂昌院の寄進で堂塔が修理されている。

1964年には真言宗豊山派から独立し、真言宗室生寺派の大本山となった。

伽藍

ファイル:Muroji Kondo interior.jpg
金堂須弥壇 左から十一面観音、文殊菩薩、釈迦如来、薬師如来、地蔵菩薩(この写真では見えない)の各像。手前に立つのは十二神将像

室生山の山麓から中腹にかけてが境内となっている、典型的な山岳寺院である。室生川に架かる朱塗りの太鼓橋を渡ると、正面が本坊で、右方にしばらく行くと仁王門(近代の再建)がある。仁王門を過ぎ、最初の急な石段(鎧坂という)を上がると、正面に金堂(平安時代国宝)、左に弥勒堂(鎌倉時代重文)がある。さらに石段を上ると如意輪観音を本尊とする本堂(灌頂堂)(鎌倉時代、国宝)があり、その左後方の石段上に五重塔(平安時代初期、国宝)がある。五重塔脇からさらに400段近い石段を上ると、空海を祀る奥の院御影堂(みえどう、室町時代前期、重文)に達する。

金堂

屋根は寄棟造柿葺き。桁行(正面)5間、梁間(側面)5間(「間」は長さの単位ではなく柱間の数を意味する)で、桁行5間、梁間4間の正堂(しょうどう、内陣)の手前に、梁間1間の礼堂(らいどう)を孫庇として付した形になる。孫庇部分は片流れ屋根となり、両端を縋破風(すがるはふ)として収めている。堂は段差のある地盤に建っており、建物前方の礼堂部分は斜面に張り出して、床下の長い束(つか)で支えている。このような建て方を「懸造(かけづくり)」と言い、山岳寺院によく見られる。正堂部分は平安時代前期(9世紀後半)の建立であるが、鎌倉時代末期に大修理を受け、多くの部材が取り替えられている。礼堂部分は寛文12年(1672年)に全面的に建て替えられている。堂内須弥壇上には向かって左から十一面観音立像(国宝)、文殊菩薩立像(重文)、本尊釈迦如来立像(国宝)、薬師如来立像(重文)、地蔵菩薩立像(重文)の5体が横一列に並び、これらの像の手前には十二神将立像(重文)が立つ。[1]

須弥壇上には前述のように5体の仏像を横一列に安置するが、須弥壇部分の柱間が3間であることから、当初の安置仏像は3体であったと推定される。造立年代は釈迦如来像と十一面観音像が9世紀、他の3体が10世紀頃とみられる。中尊像は現在は釈迦如来と呼ばれているが、光背に七仏薬師像を表すことなどから、本来は薬師如来像として造立されたものである。5体の仏像はいずれも板光背(平らな板に彩色で文様を表した光背)を負うが、向かって右端の地蔵菩薩像の光背は、像本体に比べて不釣り合いに大きく、本来この地蔵像に付属していたものではない。宇陀市室生三本松の中村区所有(安産寺)の地蔵菩薩立像(重文)は、室生寺の釈迦如来立像と作風が近い。また、前述の室生寺金堂の右端の像の板光背は、中村区地蔵菩薩像の像高に合致するものである。以上のことから、中村区地蔵菩薩像は本来室生寺金堂に安置されていたものであり、金堂須弥壇右端の像の板光背は、本来、中村区像に付属していたものであると見るのが定説となっている。[2]

弥勒堂

入母屋造、杮葺き。桁行3間、梁間3間。鎌倉時代前期の建築だが、江戸時代に大幅に改造されている。堂内中央の厨子に本尊弥勒菩薩立像(重文)を安置し、向かって右に釈迦如来坐像(国宝)を安置する。

本堂(灌頂堂)

入母屋造、檜皮葺き。桁行5間、梁間5間。室生寺の密教化が進んでいた鎌倉時代後期、延慶元年(1308年)の建立。梁間5間のうち、手前2間を外陣、奥の3間を内陣とする。この堂は灌頂堂(かんじょうどう)とも称され、灌頂という密教儀式を行うための堂である。内陣中央の厨子には如意輪観音坐像(重文)を安置し、その手前左右の壁には両界曼荼羅金剛界曼荼羅胎蔵界曼荼羅)を向かい合わせに掛け、灌頂堂としての形式を保持している。正面は5間とも和様の蔀戸(しとみど)とするが、両側面の前方2間は桟唐戸とする。桟唐戸の使用や、頭貫の木鼻などに大仏様(だいぶつよう)の要素がみられる。[3]

五重塔

800年頃の建立で、木部を朱塗りとする。屋外にある木造五重塔としては、法隆寺塔に次ぎわが国で2番目に古く、国宝重要文化財指定の木造五重塔で屋外にあるものとしては日本最小である。高さは16メートル強、初重は1辺の長さ2.5メートルの小型の塔で、高さは興福寺五重塔の3分の1ほどである。

通常の五重塔は、初重から1番上の5重目へ向けて屋根の出が逓減(次第に小さくなる)されるが、この塔は屋根の逓減率が低く、1重目と5重目の屋根の大きさがあまり変わらない。その他、全体に屋根の出が深く、厚みがあること、屋根勾配が緩いこと、小規模な塔の割に太い柱を使用していることなどが特色である。屋根の大きさが1重目と5重目とで変わらないのに対し、塔身は上へ行くにしたがって細くなり、5重目の一辺は1重目の6割になっている。しかし、斗(ます)、肘木などの組物の大きさは同じなので、5重目では組物と組物の間隔が非常に狭くなっている。側柱(外面の柱)の径は1重目が28センチ、2重目以上が23センチである。日本の他の仏塔では、最上部の九輪の上に「水煙(すいえん)」という飾りが付くが、この塔では水煙の代わりに宝瓶(ほうびょう)と称する壺状のものがあり、その上に八角形の宝蓋(ほうがい)という傘状のものが乗っている珍しい形式である。寺伝では、創建にかかわった僧侶修円がこの宝瓶に室生の竜神を封じ込めたとされる。

心柱には江戸時代の明和5年(1768年)の修理銘を記した銅板が打ち付けられており、明治33年(1900年)から翌年にかけても半解体修理が行われた。このほか、部材には鎌倉時代末期頃のものが含まれることから、その頃にも一度修理を受けていることがわかる。部材には当初材のほか、鎌倉時代、江戸時代(明和)、明治時代のものが含まれ、各重の側柱には明和と明治の修理で取り換えられたり、当初位置から移動しているものが多い。屋根は建立当初は板葺きで、明和の修理で檜皮葺きに変更したものとみられる。

五重塔は、1998年9月22日台風7号の強風でそばの杉(高さ約50メートル)が倒れた際に屋根を直撃、西北側の各重部の屋根・軒が折れて垂れ下がる大被害を受けた。しかし、心柱を含め、塔の根幹部は損傷せずに済み、復旧工事を1999年から2000年にかけ行った。修理に際し奈良文化財研究所により、当初材を年輪年代測定法で調査したところ、794年頃に伐採されたものであることが判明した。このことからも塔の建立年代を800年頃とする従来の定説が裏付けられた。[4]

文化財

国宝

ファイル:Shaka Muroji Kondo.jpg
釈迦如来像(金堂)
  • 金堂(既述)
  • 本堂(既述)
  • 五重塔(既述)
  • 木造釈迦如来立像 - 像高237.7センチ。金堂の本尊で、平安時代前期(9世紀)の作。カヤ材の一木造である。台座と光背は当初のものが残る。光背に七仏薬師が描かれている点、堂内に十二神将(薬師如来の眷属)が安置されている点などから、本来は釈迦如来でなく薬師如来として造立されたものである。本像を含め、堂内の諸仏は平らな板に絵具で図柄を表した「板光背」を負う点にも特色がある。これら板光背は平安時代の絵画資料としても貴重である。[5]
  • 木造十一面観音立像 - 像高195.1センチ。平安時代前期(9世紀)の作。カヤ材の一木造である。板光背は後補。金堂内陣の向かって左端に安置する。本尊釈迦如来像とともに、「室生寺様」(-よう)と称される特有の作風を示す。[6]
  • 木造釈迦如来坐像 - 像高106.3センチ。弥勒堂の本尊に向かって右に安置される。伝来や造像の由緒は一切不明だが、作風から平安時代前期(9世紀)の作とみられる。太く丸みのある衣文と細く鋭い衣文を交互に刻む翻波式(ほんぱしき)衣文は平安前期彫刻の特色だが、本像のように全面に翻波式衣文を駆使した作品は珍しい。[7]
  • 板絵着色伝帝釈天曼荼羅 - 金堂本尊背後の壁に描かれた彩色画。主題は明らかでないが、寺伝では中尊を帝釈天とする。遺例のきわめて少ない平安前期仏画の稀少な遺品の1つである。[8]

重要文化財

  • 弥勒堂 - 鎌倉時代
  • 御影堂(奥の院) - 室町時代前期
  • 納経塔(石造二重塔) - 平安時代後期
  • 五輪塔 附:小五輪塔二基、基壇(伝 北畠親房墓) - 室町時代前期 1961年3月23日指定
  • 木造文殊菩薩立像 - 金堂安置、平安時代。
  • 木造薬師如来立像 - 金堂安置、平安時代。
  • 木造地蔵菩薩立像 - 金堂安置、平安時代。
  • 木造十二神将立像 - 金堂安置、鎌倉時代。12体のうち辰神・未神像は奈良国立博物館に寄託。
  • 木造弥勒菩薩立像 - 弥勒堂安置、平安時代。
  • 木造如意輪観音坐像 - 本堂安置、平安時代。
  • 両部大壇具 一括
  • 大神宮御正体

アクセス

脚注

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参考文献

  • 井上靖、塚本善隆監修、田中澄江、伊藤教如、林亮著、『古寺巡礼奈良10 室生寺』 淡交社、1979
  • 鷲塚泰光、『室生寺』(日本の古寺美術13)、保育社、1991
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』60号(室生寺・宇太水分神社)、朝日新聞社、1998
  • 『日本歴史地名大系 奈良県の地名』、平凡社
  • 『角川日本地名大辞典 奈良県』、角川書店
  • 『国史大辞典』、吉川弘文館

関連項目

外部リンク

テンプレート:Sister

  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』60号5 - 295 - 5 - 296
  • 石川知彦「室生寺金堂をめぐる仏たち」『週刊朝日百科 日本の国宝』60号5 - 306 - 5 - 308
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』60号5 - 313 - 5 - 314
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』60号5 - 293 - 5 - 294; 松田敏行「国宝室生寺五重塔災害復旧工事について」『月刊文化財』440号、第一法規、2000、pp.58 - 61
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』60号
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』60号
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』60号
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』60号