女衒

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テンプレート:独自研究 女衒(ぜげん)は主に若い女性を買い付け、遊郭などで性風俗関係の仕事を強制的にさせる人身売買の仲介業である。歴史は古く古代からこのような職業が存在していたと考えられ、テンプレート:要出典範囲

概要

由来

日本では、古くは女見といったことがあるらしい。「七七四草」には「女見の女を衒(う)るところより、女衒と書き、音読み転訛してゼゲンと呼ばれるに至れるならん」とある。女見は文字通り娼婦としての商品価値を見極める意で、その目利きの良い者を呼んだ。

行い

江戸時代の女衒は、身売りの仲介業として生計を立てていた。女衒が貧しい家の親や兄や眷属などから、女性を買い遊郭などに売った。女衒の定義としては広義に、時として人さらい・誘拐犯など反社会的勢力と直接的・間接的に通じていたとされる。狭義には、仲買業を営む彼らは、恒常的かつ直接的にリスクの高い犯罪に自らの手を染めるケースは皆無とは言えないものの稀である。(悪意の場合を除く。)

側面

江戸時代の女衒は多くの場合、表向きは、年季奉公の前借金前渡しの証文を作るが、実態は身売りであり人身売買であった。彼らのコミッションは身売り額の10%~20%と法外で破格の高さである。吉原を遊郭の例にとると、身売り額の半分近くが女衒のコミッションをはじめ、交通費、新生活を始めるための家財道具一式の費用、その他、諸経費などに引かれ、親元に支払われるのは半額程度であった。

職能・職域

職能

風来山人の細見「嗚呼御江戸」の跋にあるように、目鼻から爪の先、指のそりよう、あゆみぶりまで注意して、そののち価格がさだまるから、女性をみる術に秘伝があるとされた。具体的には「鑑定の秘伝、極意」とも呼ばれ、鑑定の評価として極上、上玉、並玉、下玉という格付けがあった。

職域

雇人口入と身元保証営業の公認者、または公の周旋業者で主として芸娼妓紹介人といって斡旋するものをいう。荷出し、玉出し、手引きなどという下働きを肝いりといって区別した。広義にはもぐりの周旋業者、紹介人などをも含めて女衒といい、遊廓や岡場所、貸座敷業には必要欠くべからざるものであった。

歴史

江戸時代

江戸時代も中頃まではテンプレート:誰範囲2

老中松平定信の時に江戸幕府はこれを遺憾とし、寛政7年吉原規定証文の作成励行の前、寛政4年5月に女衒禁止令ともいうべき法文を発布、これを以て女衒を単に遊女奉公の口入れにとどめ、証書の加印を廃止し、廓内に居住させ名主がこれを監督するという条件で許可を得て存続させた。その一方で加印のある証書は遊女の親族にあらため、女衒の慣習上の権利を剥奪した。この結果、公認・非公認の女衒による合法・非合法の二極化が進行することとなった。

しかし、このようなモグリに対する取締令も効果は薄く、すでに各地に根を張っていた非公認非合法な女衒は法の網をかいくぐって岡場所や宿場女郎を扱い続けた。一方、公認合法な女衒は、天保年間には新吉原関係の女衒だけでも廓外の浅草田町や山谷付近に14、5軒の家を構えた。その中でも山谷の近江屋三八なる女衒は10余人の子分を使って自らも各地を奔走し、扱った公娼の遊女は数百人にのぼる。

江戸城下の女衒は、現在の東京都台東区荒川区をまたにかける山谷地区に多く点在していた。

明治時代から現在

明治時代人身売買禁止法が制定され女衒は消えたかというと、それは表向きの話で実際はそのようなことはなかった。貧しい家では女衒により売買が続行され、娼婦として売り飛ばされていった(からゆきさん参照)。

大正15年(1925年)に日本は国際連盟の「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」を批准しているが、大正昭和の日本では内地(本土)の女性以外にも日本領朝鮮台湾から女性を、女衒の仲介を経て慰安婦にしたり、遊郭に売られたりした。女衒には朝鮮人も多く、朝鮮人が朝鮮人の女性を買い集め、売り飛ばしたとの物証(許氏が売春婦を集め、軍人相手に商売しようとしていたチラシが残る)も存在する)。

このような行為は高度成長期初めまで続くが、昭和三十四年に政府が売春防止法を施行して公娼制度を廃止すると、それと同時に女衒も自然消滅した、とされているが、特定のイベントや性風俗映像、写真や酒席で女性が必要な時やホステス(外国人を含む)が在籍する風営法による飲食店やパーティー業者が行う接待は、一部で名目だけの芸能事務所プロダクション)からその人材の斡旋をうけていることがある。これらは必ずしも違法性は伴なわず、売春といったものとは無縁であることが殆どであるが、現代の女衒と揶揄されることがある。これは、「接待」という行為自体が、長年のわが国独特の文化として定着している点、いわゆるお酒の「お酌」や酒席の「芸人」と言った業が、外国では存在しないことが理由として大きい。従って、ホステスの接待=売春・性奴隷とアメリカ人の目に映ることが多い。これに対して、わが国では江戸期の「遊女」と「芸者」、現代のソープ嬢とキャバクラのホステスの間には、かなり明確な差異が認められる訳だが、このような歴史的・文化的慣習を積極的に海外に発信していける分野とも言えず、外国からはクソも味噌も一緒と看做されているのが現状である。

現在の公序良俗やモラルと、政府公認の公娼や遊郭が許されていた1959年以前では、女衒の本質も大きく違っている。現在では、国際的な外圧もあり、上記のような接待行為に係わる人材派遣(特に外国人による接待行為)の仲介業に対して「ヒューマントラフィッキング」という言葉が使われている。主に米国からの外圧を受けたマスコミ等もヒューマントラフィッキングにそのまま(人身売買)という言葉をあて、バッシングの対象にしている側面も見逃せない。

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同じ時期に、米国は湾岸戦争を起こしているが、これに対し、スービックの米軍駐屯基地も既に閉鎖に追い込んでいるフィリピン政府は非協力的であり、人材・資金とも一切供出しない決定を下している。フィリピンの外貨の稼ぎ頭が海外出稼ぎ労働者である点を考慮すると、幸か不幸かわが国の入管行政が米国政府の外交的な締め付けの役割の一端を担った類型と言える。

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関連項目