天王山

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テンプレート:Infobox 山 天王山(てんのうざん)は、京都府乙訓郡大山崎町。 西側の山腹を、摂津国(現在の大阪府)と山城国(現在の京都府)の国境がよぎる。

山名は、中腹に牛頭天王を祀る山崎天王社(現 自玉手祭来酒解神社)があることに由来する。

地理

京都盆地の西辺となる西山山系の南端に位置し、東の男山とのあいだで地峡を形成する。この地峡には、桂川宇治川木津川が合流して淀川となる川の流れに沿って、右岸にJR京都線東海道本線)、東海道新幹線阪急京都線国道171号(旧西国街道)が、左岸に京阪本線、旧国道1号(現・府道13号京都守口線、旧京街道)と、かつて水上交通路であった川筋をふくめて、近畿最大の大動脈である京阪間のほぼすべての交通路が含まれる。また、その京都府側では名神高速道路大山崎JCT/ICがあり、名神高速道路のバイパス機能を持つ京滋バイパスが宇治・滋賀(名神瀬田東JCT)方面へ分岐する。

また、当地は、豊富な地下水に恵まれており、南麓の大阪府側にサントリー山崎蒸溜所が所在することでも知られる。近畿地方では名神高速道路の渋滞箇所で有名な天王山トンネルの知名度が高い。

歴史

上記のような地峡を扼する地であることから、南北朝応仁の戦乱でも戦略上の要地として争奪の舞台となり山城も築かれた。なかでも、天正10年(1582年)6月に織田信長を討った明智光秀とその仇討ちを果たそうとする羽柴秀吉が戦った山崎の戦いでは、この山を制した方が天下を取ることになるとして「天下分け目の天王山」という言葉で表現され、現在でもスポーツ政治などの重大な試合や局面の比喩にその名を残す。なお、この戦いを制した秀吉は、同年末に当地に山崎城(宝積寺城、宝寺城とも)を改修して、翌年に大坂城に移るまで本拠とした。

くだって幕末、禁門の変では、長州藩が当地を押さえた上で京都御所へ進撃するが、結果的に敗走し、参陣していた真木保臣ら十七烈士は当地で自刃した。

また、4年後の鳥羽・伏見の戦いでは、旧幕府軍が男山の麓の橋本淀川の対岸にある大山崎に分かれて布陣して新政府軍を迎え撃ったが、大山崎に布陣していた津藩が新政府軍に寝返って橋本の旧幕府軍を砲撃したことで旧幕府軍は総崩れとなり、戦いの趨勢が決している。

ギャラリー

その他

  • 本将棋では中央(5五)の位を制するのが重要であったことから、その地点を天王山と呼ぶ。

関連項目

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