大阪タワー

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テンプレート:Pathnav テンプレート:建築物 大阪タワーおおさかタワー)は、かつて大阪府大阪市北区大淀南にあった、朝日放送電波塔ラジオ高石)、テレビ生駒山)送信所への中継電波を送信していた他、タクシー新聞社などの電波中継地点となっていた。地上102メートルのところに2層の展望台があった。

1967年から1989年まで使用された朝日放送テレビのオープニング映像(通称「未来都市バージョン」)で大阪タワーを中心とした未来都市を描いたイラストが使用されるなど、かつては朝日放送のシンボル的存在であった。

1968年、当時の朝日放送本社と共に第5回BCS賞を受賞した[1]

特徴

形状

大阪タワーの形状は、上から見ると正方形鋼管を組み上げた構造で、寺院にある五重塔の構造理論を応用して建設したという。東京タワーのような裾広がりのテレビ塔ではなく、ロケット発射台のような真四角のタワーになったのは、用地難のためである(後述)。

当時開発されたばかりの超張力の特殊鋼材を使用し、基礎杭を天満層まで打ち込んで建設された。また、このタワーと生駒山の山頂にある朝日放送テレビの送信アンテナとの揺れを同調させるために「ヤジロベエ工法」を採用、風洞実験を重ねて、風速90メートルにも耐える剛性を実現した。なお、タワーの塗装は展望台より下は白、上のアンテナ部分は赤と白に塗られていた。

機能と開業

総工費は4億円、1966年に朝日放送の旧社屋とほぼ同時期に完成。タワーの名称は一般公募(応募総数約3万通)の中から「大阪タワー」に決定。ラジオとテレビの送信、中継アンテナやタクシーの無線用アンテナ、また大阪府の公害汚染濃度測定器なども設置された。

地上102メートルに位置する展望台は2階建て。大阪のシンボルである通天閣より9メートル高く、30人乗りのエレベーター(1基)で270人の観光客を収容できた。タワー開業と同時に、朝日放送は関連企業として「大阪タワー株式会社」を発足。大阪の新名所として1日に4,000人の来場者が訪れたが、当時問題であった大気汚染の影響で、展望台からの視界が悪くなった事や、隣接用地に同じく関連企業の高層建造物「ホテルプラザ」が開業した事もあり、次第に観光客が減少してきた。

スタジオとしての機能

大阪タワーが再び注目を浴びたのは1979年。展望台の2階に「スカイスタジオ」が設置された。この時スタートしたテレビの朝の情報番組「おはよう朝日です」が使用した。出演者の背景には淀川など北西方面の実際の空が映し出された。朝の風景は、天気はもちろん、眼下に見える阪神高速道路池田線の渋滞や、鉄道の動きなどが手に取るにように見えた他、時には生放送中に火災などを目撃する事もあり、全く新しい形のスタジオとして評判を集めた。当時の番組タイトルには大阪タワーのイラストが描かれていた他、同番組の主題歌「朝(あした)の空」(歌:紙ふうせん)のレコードジャケットは大阪タワー展望台から撮影された生駒山上に昇る日の出の写真が使われた。

また、早朝番組「おはよう6」でも使用され、一時は朝の時間帯のおよそ2時間半の生放送の情報番組がこのスカイスタジオから制作・放送された。「おはよう朝日です」はこのスカイスタジオを1994年9月まで使用。その後は「おはよう天気です」→「おはようコールABC」のスタジオとなる。また、1989年から2年間はABCラジオの午後のワイド番組「パノラマ大放送」で使われた他、朝日放送系列のCSテレビ局「スカイ・A (現:sky・A sports+)」の番組でも使われた。

「おはよう朝日」スタート以前にも大阪タワーがテレビに登場している。完成翌年の1967年7月放送の「TBS歌のグランプリ」(CS放送・TBSチャンネルで2005年6月19日と22日に再放送)では大阪タワーの展望台から歌手フランク永井が出演し、『大阪ろまん』を熱唱する模様が全国に向けて中継放送された[2](この当時、「大阪タワー」の外壁文字が縦に書かれていた)。また、同じ年には人気特撮ドラマ「ウルトラマン」の第27話「怪獣殿下 後篇」に大阪タワーが登場。怪獣・ゴモラを監視する「対策本部」が設置されたという設定で展望台でのロケシーンがあり[2]、当時の雰囲気を伺う映像資料としての側面も持っていた。

観光タワーとして

テレビスタジオとして名を馳せた大阪タワーだが、その間も一般観光客も入場できた(営業時間は午前10時 - 午後6時)。開業当時の営業時間は午前9時 - 午後9時。また、かつては元旦に「初日の出営業」も行われていた。

展望台1階部分は営業終了まで全面開放された。ここには送信機などが設置された他、スカイスタジオのラジオ放送ブースが設置される1989年秋までは2階部分も南東部のみ開放されていた。なお、スタジオとの間の部分はガラスで仕切られ、スタジオ部分に入る事はできなかった。

エレベーターは手動扉で、利用者がある場合には受付係員(中高年の男性)が自ら操作して利用者を展望台に案内し、下りる際には展望台のエレベーター前にあるインターホンを押して地上に下りている係員を呼び出すという方式であった。

エレベーター乗り場の横には喫茶室、この他タワー塔屋には朝日放送の関連施設の事務所があった。なお、スカイスタジオの映像や音声をコントロールする副調整室は隣接する朝日放送本社の中に設置されていた。

この他、朝日放送の施設ということで、1987年頃まではチケット売場で朝日放送の番組記念品を販売しており、人気番組「新婚さんいらっしゃい!」「おはようパーソナリティ道上洋三です」「ABCヤングリクエスト」などのノベルティグッズを扱っていた。また開業当初は大阪タワーのミニチュアの置物や絵葉書、記念刻印メダルなど、独自商品も販売していた。

利用者に渡される入場券やリーフレットも、地図部分や展望に関する内容が、開業当時やその直後のまま(広告は差し替えられている)で、地図には1990年代に入っても大阪万博会場が書かれていたり、和歌山駅も旧駅名の「東和歌山」と表記されていた。また、スカイスタジオから放送されている番組の紹介も記されていたが、これも放送時間や出演者が変更されないまま配布されており、古さが目立った。

開業当時の入場料は大人120円・子供60円。営業終了時の入場料も大人300円と安く、大阪キタの風景を眺めるのにも適していた。しかし後年は、近くに新梅田シティ、また大阪駅周辺や中之島方面にも大阪タワーより高い高層ビルが完成したため、展望台としての相対的価値は失われていた。もっとも、新梅田シティ完成前から利用者は寡少であった。一般営業を終了する1年前の1996年のタワー入場客は1日数人単位。1年間でも約1,800人にとどまり、5年前(1991年)の半分以下と落ち込んでいた。この当時の東京タワーの入場客数は年間300万人、通天閣は40万人台と、大きく水を開けられていた。

スタジオの役割を終えて

前述した通り、大阪タワーは入場者が年々減少してきた事に加えて、1994年12月の日本テレビでの郵便爆弾事件などのアクシデントから、放送局への部外者の立ち入り規制が一段と強化された事も追い打ちをかけた。そのため、大阪タワーの一般客開放は1997年9月で終了。その後、展望台部分にはABCロゴのネオンサイン表示を設置した。また、1999年3月には会社組織としての「大阪タワー株式会社」も解散されている。

テレビのスカイスタジオは2001年まで運用され、その後は2002年から2004年までは総務省の外郭団体「通信・放送機構」(TAO)が使用し、「通信放送融合テストベッド事業」の一環で、デジタル化時代に向けた、放送と通信の融合を見据えた番組制作の実験施設として使われた。

2008年に朝日放送が大阪市福島区の新社屋に移転し、電波塔としての機能を終了。終了後は、同じく閉鎖されているホテルプラザと共に解体され、跡地は商業施設か住宅施設になる方針である。なお、現社屋に移転してからは、本社の屋上に設置されている鉄塔から番組の送信を行っている。

解体工事は、2009年9月7日から竹中工務店により行われた。この工事では、鉄塔を下部から解体する工法(「竹中グリップダウン工法」と呼ばれる。通称ダルマ落とし工法)を国内で初めて採用した[3][4]。この解体工事は2010年初めまで行われた。

その他

急遽建設が決まったタワー

朝日放送の旧社屋と同時に完成した大阪タワーだったが、当初の予定ではテレビの送信塔は、社屋ビルの屋上に突き出たものが考えられており、基本構想もそのようなものが発表されていた。

しかし、同局の技術部門は、将来の大阪市内のビル高層化を考えると、少なくとも110メートル以上の高さのテレビ塔が必要であると力説。さらに、局員の中では「通天閣をしのぐ、大阪の新名所を造るべきだ」との意見もあった。

それらを受けて本社屋の設計を変更する事になったのだが、社屋ビルの上にそれだけの高さのテレビ塔を建設する事が不可能と判明、代わって社屋の南側に大阪タワーを建設する事になった。こうした問題からも用地確保は難しく、真四角型のタワーとなったのである。

阪神大震災と大阪タワー

1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災。発生時刻の午前5時46分は、当時スカイスタジオから放送していた情報番組「おはよう天気です」の生放送開始直後であった。しかしこの時期、大阪タワーはエレベーターの保守・点検工事の期間だったため、同番組も本社のAスタジオから放送していた。このため、地上102メートルの展望台で、生放送の番組が巨大地震に遭遇するという最悪の事態は、奇しくも逃れる事ができた。

過去にもあった取り壊し案

1991年、朝日放送は社屋用地の再開発試案を発表した。その際に、用地の北側にある公園(通称:ABC公園)部分に、22階建て規模の本社機能のある社屋を建設する他、公園などの施設を整備。さらに大阪タワーを取り壊し、跡地に15階建て前後のビルを建設。多目的ホールやアスレチックジム、美術館などが入居した文化ゾーンにするといった構想であった。

これらは1995年を目処に着工し、第一期は1997年、第二期は1998年、そして第三期は2000年に完成させる予定だったが、資金問題(ホテルプラザの閉鎖なども関係した)やデジタル放送の準備などもあり、新社屋の計画は白紙となる。2004年に改めて大阪市福島区福島一丁目の大阪大学医学部付属病院跡地に完成する再開発計画地域(後のほたるまち)に移転する計画が発表された。新社屋からの放送は2008年6月23日に始まった。

マスメディアでの紹介

  • 探偵!ナイトスクープ」(2006年3月17日放送分)でも当タワーが紹介され、大阪タワー展望台に登りたかった依頼者と探偵である桂小枝が通常、一般には利用しない階段で昇り、展望台内部とスカイスタジオの内部が紹介されていた。ちなみに帰りはエレベーターで降りてきた。
  • 2008年4月22日放送のテレビ番組「ごきげん!ブランニュ」の「さよなら大淀社屋特集」では、当タワーが紹介された。その際、乾龍介が当時のエピソード、大阪タワーの思い出を披露した。
  • 同年7月6日放送の「朝日放送新社屋完成記念 移転!一新!ABC放送局のお引越し」でも紹介され、キダ・タローと、3代目「おは朝」土曜日司会者の三代澤康司アナウンサーも思い出を披露した。
  • 朝日放送が新社屋から放送を開始した、2008年6月23日付のスポーツニッポン(大阪版)紙面において、当タワーを「さよなら大阪タワー…“現役引退”役割終え解体へ」の見出しで紹介された。「ごきげん!ブランニュ」同様、乾・元アナウンサーがインタビューに応じ、「夏は暑く、冬は寒い。エレベータのドアが凍り付いて、階段でスタジオに昇ったこともあった」と証言していた。

施設概要

脚注

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関連項目

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  1. 当時のタワーには、「ブルーバード」「セドリック」(日産自動車の製造する自動車ブランド)の広告が縦に入っていた。なお、朝日放送社屋1階には日産大阪ギャラリーがあった。
  2. 2.0 2.1 これらは、当時朝日放送がTBSとネットしていたからこそ実現していた事である。1975年4月にネット形態の見直し(新聞社との業務提携の食い違い、いわゆる腸捻転の解消)のために朝日放送は毎日放送ネットチェンジし、現在はテレビ朝日(腸捻転解消当時はNETテレビ)とネットしている。
  3. 同様に高層建築物を下部から解体する工法としては、鹿島建設が「鹿島カットアンドダウン工法」として実用化しており、2008年に鹿島建設旧本社ビル(東京都港区元赤坂)の解体工事に用いている。
  4. 大阪タワーの解体映像は「みのもんたの朝ズバッ!」(TBSテレビ、2011年1月5日放送)で、閉鎖が予定されているグランドプリンスホテル赤坂解体の可能性を取り上げたニュースにおいて、竹中工務店の高層建築物解体の実績として紹介された。TBS系の番組であるので、当然の事ながら関西地区では毎日放送でネットされた。