多田三八郎

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多田 三八郎ただ さんぱちろう、生年不詳 - 永禄6年(1563年))は戦国時代武将。甲斐武田氏家臣で足軽大将武田信虎武田信玄の2代に仕える。三八・三八郎、淡路守は昌澄で(『寛永諸家系図伝』)、『甲斐国志』では「満頼」としているが文書上からは確認されない。法名は宗樊。子には多田常昌多田昌俊がいる。後代には武田の5名臣に含まれる。

略歴

摂津源氏一族の多田源氏後裔と称し、源頼光の孫の多田頼綱或は、源満仲の弟の源満季の子孫というが、系譜は詳らかではない。

甲陽軍鑑』に拠れば、美濃国の生まれ、弓矢修行のため甲斐国に渡り武田信虎に仕え足軽大将となったという。晴信期にも仕え、原虎胤横田高松小幡虎盛山本勘助とともに五人衆と称されたという。

確実な記録資料上においては天文16年(1547年)8月の信濃国佐久郡志賀城攻めにおいて活動が見られ、関東管領上杉憲政の援軍との小田井原合戦において板垣信方らと活躍している(『勝山記』)。翌天文17年(1548年)には信濃守護小笠原長時との戦いにおいて信玄から感状を受けている(『戦国遺文武田氏編』-263号)。

『甲斐国志』においては、三八郎が信濃虚空蔵山砦を警護していた際に地獄の妖婆「火車鬼」を退治したという伝説や、湯村温泉で天狗を倒した鬼の湯伝説が残っている。

永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いの頃は、既に病床にあり、自分の代わりに息子を参戦させている。その2年後の永禄6年(1563年)に病死。墓所は長野県富士見町の常昌寺。

家督は常昌が継いだが、設楽原で戦死したため、その後は昌俊が継承。

各種系図

  • 『増澤系図』

多田氏政源頼政十三代後胤)-多田久政-多田久平(満頼)

  • 中田憲信編纂『諸系譜』

多田重国満重満継季満満氏満長満秀-多田貞弘(満頼)

参考文献

  •  平山優「多田三八郎」『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008

関連項目