塙直之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

塙 直之(ばん なおゆき、永禄10年(1567年[1] - 元和元年4月29日1615年5月26日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。諱は直次、長八、尚之とも。一時、出家して鉄牛と号した。須田次郎左衛門、時雨左之助といった変名もある。一般には塙団右衛門の名で知られる。

生涯

出自は不明である。一説には上総国養老の里から出て「地黄八幡」の旗印で知られる北条綱成に仕えていた[2]。他説には、織田氏の家臣である塙直政の一族で、織田信長羽柴秀吉にも仕えたが、普段はおとなしい性格なのが、酒を飲むと暴れ出すという悪癖があり重用されなかったとする物などがある。

後に加藤嘉明の家臣として仕え、鉄砲大将として活躍した。嘉明に従って朝鮮出兵にも参加して活躍し、その功績により350石の知行を与えられている。しかし慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのとき、鉄砲大将を任されながら、隊を置いて槍を持って突撃するという軍令違反により嘉明と対立し、そのもとを去った(恩賞に不満があった説、嘉明が自身を重用しないのを恨んで、城門に恨みの漢詩を貼り付けて去ったとも言われている[3]

その後、小早川秀秋松平忠吉に仕えたが、どちらも数年で断絶。そして福島正則らに仕えたが、これに旧主の嘉明の奉公構による邪魔が入って長続きせず、一時期は仏門に入っていた。

ファイル:Ban Danemon bosho.jpg
塙直之(塙団右衛門) 墓所

慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣に豊臣方として参加し、大野治房の元で本町橋の夜襲戦において名を揚げる。しかし、翌年の大坂夏の陣では大将に任じられたが、緒戦における浅野長晟攻めでの樫井の戦いにおいて一番槍の功名を狙い、先陣の岡部則綱と競い合って突出し、治房本隊や和泉国の一揆勢との連携が取れないまま、奮戦はしたものの矢を受けて落馬し、背後から槍を突かれて討ち死にした。

墓所は、現在の大阪府泉佐野市南中樫井(みなみなかかしい)地内、大阪府道64号和歌山貝塚線熊野街道)沿いに存在する。

人物・逸話

  • 文禄の役において、加藤家の4反(およそ1.3m×10m)の大きな旗指物を背負って戦場を疾走し、賞賛された。
  • 本町橋の夜襲戦では本町橋で指揮を取り、兵たちに「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒かせた。
  • 樫井の戦いでは、旗印に「塙団右衛門」と書いて自身の名を知らしめた。
  • これらの派手な活躍は、江戸時代の講談において、人気を博した。
  • 『宮城県史』には、大坂の陣の際に伊達勢に捕えられた直之の娘が侍女として召抱えられ、のちに伊達政宗の側室となったという説話が紹介されている[4]。この娘が政宗四男・宗泰の生母・祥光院であるとされるが、宗泰は慶長7年(1602年)生まれなので辻褄が合わず、また伊達氏の家譜では宗泰生母の名前・出自共に不詳であるとしている。

登場作品

小説
テレビドラマ
映画
  • 塙団右衛門化物退治の巻(1935年)

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

  • 国史大辞典』11巻805頁
  • 土屋知貞私記』
  • 「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎(小さな水に留まることなく、カモメは天高く飛ぶ。)
  • 中山栄子「伊達政宗をめぐる女性」『宮城県史』29 人物史(1986)281頁