城彰二

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城 彰二(じょう しょうじ、1975年6月17日 - )は、北海道室蘭市で生まれ、鹿児島県姶良市(旧:姶良郡加治木町)育ちの元プロサッカー選手ポジションFW。元サッカー日本代表

来歴・人物

〜高校時代

中学生の時に北海道から両親の出身地である鹿児島県へ帰省することとなる。

姶良市立加治木中学校卒業・鹿児島実業高等学校卒業。

鹿児島実業高校サッカー部では松澤隆司監督の指導を受け、二年先輩に前園真聖、同学年に遠藤彰弘横山博敏などがいた。

高校3年時の高校サッカー選手権大会第72回大会でベスト4に入った(大会得点王はチームメイトの野見山秀樹)。

Jリーグ入団

卒業後はJリーグジェフユナイテッド市原に入団。デビュー戦でゴールを挙げ、それから4試合連続ゴールを挙げるなど注目を集めた[1]

市原では若くしてチームを象徴する選手となるが、日本代表での活躍や海外移籍などを見据えたキャリアアップを理由にして1997年に横浜マリノス(1999年から横浜F・マリノス)へ移籍した。マリノスでは高校同期生の遠藤と同僚となり、チームの中心選手として活躍した。

日本代表での活躍

日本代表では23歳以下の選手で構成されるアトランタオリンピックの代表チームに選出され、1996年の本大会に出場した。結果はグループリーグ敗退だったが、ブラジル戦では相手GKジーダと競り合って伊東輝悦のゴールを演出し、マイアミの奇跡と呼ばれる勝利に貢献した。

1997年には、フランスW杯アジア最終予選で悲願の初出場に貢献した。ジョホールバルの歓喜と呼ばれ、日本がイランを破って本大会出場を決めた1997年11月16日のアジア第3代表決定戦ではチームの窮地を救う同点ゴールを決めた。

1998年、エースストライカーとして臨んだフランスW杯本戦では得点することが出来なかった。チームも3戦全敗を喫してしまい、特にアルゼンチン戦ではTVで解説を務めていたラモス瑠偉により「シュートを外してヘラヘラ笑っている」と激しく批判され、戦犯として日本中で激しいバッシングを受ける。

フランスW杯以後も代表に選出されていたが、2001年3月の対フランス戦を最後に代表から外れた。

スペイン挑戦

城はフランスW杯での挫折からの巻き返しを誓い、後のJリーグでゴールを量産。そして2000年1月、念願だった欧州リーグに挑戦する事となる。

スペインのリーガ・エスパニョーラ1部・バリャドリードへシーズン途中でレンタル移籍し、ほぼレギュラーとして活躍。得点こそオビエド戦で挙げた2得点にとどまったが、ポストプレーなどでのチームへの貢献が評価された。

シーズン終了後に完全移籍やレンタルの延長が検討されたが、日本代表の試合での負傷がきっかけで高校時代から膝の前十字靭帯を切ったままプレーを続けていたことが発覚し、契約を見送られてしまった。

Jリーグ復帰

スペインでのプレーが出来なくなり、横浜F・マリノスへ復帰したが、その後はケガや体調不良などで得点数が激減した。

横浜F・マリノスは城がスペインにいた2000年前半のJ1・1stステージで5年ぶりのステージ優勝を遂げ、エースの不在をはね返した。逆に同年12月のJリーグチャンピオンシップにおける2試合無得点の敗退(鹿島アントラーズが優勝)やリーグ最終戦までJ2降格の危機が残った2001年の低迷は城の不振が原因とされ、サポーターからの批判を浴びた。ヴィッセル神戸に移籍した2002年も1ゴールのみに終わり、年末には神戸から翌シーズンの契約延長を見送られ、J1でのプレーはこの年限りとなった。2003年にJ2の横浜FCへ入団した。

社長の奥寺康彦が市原のゼネラルマネージャーや監督として獲得や指導に関わった城を勧誘した事で実現し、高校の同期生の横山と同じチームになった。城はレギュラーとして試合に出場し、その合間にテレビのスポーツ番組やバラエティ番組への出演もしばしば行った。

財政難や劣悪な練習環境に苦しむ横浜FCは低迷を続け、J1昇格を予想される事はほとんど無かったが、城はコンスタントな活躍を続け、徐々に同僚やサポーターからチームリーダーとしての信頼を勝ち取っていった。 城は後にスポーツ雑誌『Number』のインタビューに答え、この時期の意識変化は妻の助言に依る所が大きかったと述べている。

2006年には主将として高木琢也監督の下、三浦知良とツートップを組み、クラブ初のJ1昇格を決めたが、前述の靭帯の故障が限界に達し、2006年シーズンを最後に現役引退を発表。シーズン中にも拘らず11月23日・三ツ沢公園球技場で行われた徳島ヴォルティスとの試合後にファンの前で引退の挨拶を行った。この時、当時39歳の三浦知良は「俺よりも若い」と引退を惜しんでいる。

現役最後の公式戦となった12月2日愛媛FC戦ではアシストを記録し、試合後のセレモニーでJ2優勝カップを掲げ三ツ沢の1万人以上のサポーターからの歓声で送り出されて、13年間のプロサッカー選手生活を終えた。

引退後

引退後の2007年2月にはJリーグ百年構想メッセンジャーに任命され、Jリーグが目標に掲げる地域スポーツ文化形成のための各種広報活動に参加している。この他、テレビなどで試合解説、スポーツニッポンの評論家として活動している。

同年4月より日本テレビ放送網の『サッカーアース』コメンテーター出演。

なお、引退試合開催に必要な公式戦500試合出場は満たすことは出来なかったが、日本代表に貢献した功績を鑑みて引退試合の開催が許可された。城の引退試合は最終所属クラブである、横浜FCの主催試合として2008年1月27日に三ツ沢公園球技場で行われた。

2009年日本サッカー協会指導者ライセンスの最高位であるS級ライセンスを取得。それに伴い、Jリーグクラブのトップチームならびに日本代表監督就任が可能となった。

2013年、インテル・ミラノの日本でのサッカースクール「インテルアカデミージャパン」のテクニカルディレクターに就任。

エピソード

  • プロ1年目に挙げた12得点は、長くJリーグの新人最多得点記録であった。2009年に渡邉千真が13得点を挙げてこれを更新したが、渡邉は大学からのプロ入りであり、高卒新人としては未だに城の記録は破られていない。その当時電車で自分の新聞記事を夢中で読んでいる人が「すごいな、このシロ」と名前を間違えて読んでいたことでもっと活躍しようと思ったと『ジャンクSPORTS』で発言した。
  • 当初、高校卒業後の進路は横浜フリューゲルスに内定していた。
  • 山田玲司著の『絶望に効くクスリ』3巻に登場している。
  • ゴールを決めると前転宙返りのパフォーマンスをすることがあった。
  • 名前は彰二だが長男である。これは、名前に入っている言葉通り「上昇」を願い、「1」から上昇するのでは無く、「2」から「1」に向かって上昇して欲しいと言う願いが込められているらしい。
  • 1998年のW杯後にフランスからの帰国後、一部の心ないファンにより成田国際空港で清涼飲料水をかけられる事件が発生。選手とファン(サポーター)との関係、あるいは地下鉄サリン事件などとの関連で指摘されていた要人警護のあり方などが議論になった。城自身は「ファンからの批判を甘受する」として冷静な対応をとりバッシングは一時沈静化したが、汚名を払拭するには至らず日本代表の決定力不足の象徴として批判されることとなってしまう。
  • 1998年3月1日のダイナスティカップ韓国戦で、センターサークル付近で柳想鐵が肘を城の顔面に入れ前歯が折れる。現在前歯が差し歯になっている。
  • 現役時代、かねてから地元北海道のコンサドーレ札幌入りを希望していたらしく、市原時代の同僚であり札幌OBの野々村芳和もクラブに打診していたが移籍金の高さがネックとなって実現しなかったことが2007年5月19日の『Eスポーツ』(北海道放送)出演時に明らかになった。現在は北海道で解説者として活躍している野々村の解説を参考に日々解説者の勉強に励んでいるという。また、この日の放送で快進撃を続ける札幌のサッカーが前年の横浜FCのものと似ていると評している。
  • バリャドリード在籍時代にFCバルセロナ戦の試合中、ルイス・フィーゴにチョイチョイと手招きをされ「俺がやっている寿司屋に来てくれよ」と誘われた。来店して食べてみたがあんまり美味くなかったとのこと。 またこの時にフィーゴとユニフォーム交換をする約束をしていたが、試合後にカルレス・プジョルに「ユニフォーム交換しよう」と話しかけられ、「フィーゴと交換する約束をした」と言っても聞かず、結局プジョルとユニフォーム交換した。
  • バリャドリードはあまり裕福なクラブではなく、ユニフォームは支給ではなく選手の買い取り、練習着もかごから早い者勝ちで取るという状態だったという。また、用具をメーカーから支給されるような選手もあまりいなく、自費でデパートで買っている選手もいた。そのため、スペイン時代に当時契約していたナイキ・ジャパンから10足くらいスパイクを送ってもらったが、1足を残してチームメイトにとられてしまったという。
    • 上記のスペインでのエピソードは2011年6月にバルサTV(J SPORTS)で該当試合を城自らの解説で放送された際に明かした。
  • 弟の城和憲もサッカー選手として日本フットボールリーグホンダロックサッカー部に所属していた(2007年現役引退、2011年9月よりコーチを経て監督)
  • 2007年12月、城彰二のフットボール人生を綴ったオフィシャルDVD 「JO DREAM」発売。
  • 2009年7月、城彰二の実践ノウハウ、考え方を綴ったオフィシャルDVD「城 彰二 ゴールからの逆算」発売。

所属クラブ

経歴

  • リーグ戦初出場 - 1994年3月12日ガンバ大阪
  • リーグ戦初得点 - 1994年3月12日対ガンバ大阪戦

個人成績

テンプレート:サッカー選手国内成績表 top テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1994||rowspan="3"|市原||rowspan="5"|9||rowspan="5"|J||33||12||2||1||2||0||37||13 |- |1995||43||14||colspan="2"|-||0||0||43||14 |- |1996||23||9||13||4||1||0||37||13 |- |1997||rowspan="2"|横浜M||21||12||0||0||2||2||23||14 |- |1998||31||25||0||0||1||0||32||25 |- |1999||横浜FM||11||J1||25||18||6||3||3||1||34||22 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1999-00||バリャドリード||25||プリメーラ||15||2|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2000||rowspan="2"|横浜FM||31||rowspan="3"|J1||4||2||0||0||0||0||4||2 |- |2001||11||25||2||8||4||1||0||34||6 |- |2002||神戸||9||25||1||6||2||1||0||32||3 |- |2003||rowspan="4"|横浜FC||rowspan="2"|25||rowspan="4"|J2||33||12||colspan="2"|-||1||4||34||16 |- |2004||35||8||colspan="2"|-||2||0||37||8 |- |2005||rowspan="2"|9||40||12||colspan="2"|-||1||0||41||12 |- |2006||43||12||colspan="2"|-||0||0||43||12 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始230||95||35||14||11||3||276||112 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行151||44||colspan="2"|-||4||4||155||48 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行15||2|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終396||141|||||||||||| |} その他の公式戦

代表歴

出場大会など

試合数

  • 国際Aマッチ 35試合 7得点(1995-2001)[2]

テンプレート:サッカー代表個人成績 |- |1995||1||0 |- |1996||3||0 |- |1997||13||4 |- |1998||10||1 |- |1999||5||0 |- |2000||2||2 |- |2001||1||0 |- !通算 |35||7 |}

CM出演

  • サントリー 『デカビタC』(1996年 - 1998年)
    • 「シャワールーム」編 - 三浦知良との共演
    • 「車にボールをぶつける」「ジャンケン」「バスを間違える岡野」「お願い・照れる」編 - 三浦知良、岡野雅行との共演
  • キリンビバレッジ(2009年 - )
    • 「次世代育成」編
    • メッツコーラ「出没丹下 城」篇(2012年 - )

出典

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外部リンク

元サッカー日本代表FW 城彰二 official website

関連項目

テンプレート:Jリーグ功労選手賞 テンプレート:Jリーグ記念ゴール

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  1. テンプレート:Cite web
  2. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「nationalteam」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません