和歌山毒物カレー事件
和歌山毒物カレー事件(わかやまどくぶつカレーじけん)は、1998年7月25日夕方、和歌山県和歌山市の園部地区で行われた夏祭において、提供されたカレーに毒物が混入された事件。主婦の林眞須美(現姓稲垣)が犯人として逮捕され、2009年5月18日には最高裁判所にて死刑が確定したが無実を訴え再審請求中。
概要
事件
1998年7月25日に園部地区で行われた夏祭りで、カレーを食べた67人が腹痛や吐き気などを訴えて病院に搬送され、4人(64歳男性、54歳男性、16歳女性、10歳男児)が死亡した。
当初保健所は食中毒によるものと判断したが、和歌山県警は吐瀉物を検査し、青酸の反応が出たことから青酸中毒によるものと判断。しかし、症状が青酸中毒と合致しないという指摘を受け、警察庁の科学警察研究所が改めて調査して亜ヒ酸の混入が判明した。
逮捕後
1998年10月4日、知人男性に対する殺人未遂と保険金詐欺の容疑で主婦・林眞須美(はやし ますみ、1961年7月22日 - )が逮捕された。さらに12月9日には、カレーへの亜ヒ酸の混入による殺人と殺人未遂の容疑で再逮捕された。
林は容疑を全面否認したまま裁判へと臨み、第一審の和歌山地裁の初公判では5220人の傍聴希望者が出た(これはオウム真理教事件の麻原彰晃や覚せい剤取締法違反の酒井法子に次ぐ記録であり、事件発覚前に無名人だった人物としては最高記録である)。
裁判
裁判で検察側が提出した証拠は約1700点。1審の開廷数は95回、約3年7か月に及んだ。2審は結審まで12回を要した。直接証拠も動機の解明もできていない状況の中、上告審では弁護側が「地域住民に対して無差別殺人を行う動機は全くない」と主張したのに対し、最高裁は判決で「動機が解明されていないことは、被告が犯人であるとの認定を左右するものではない」と述べ、動機を解明することにこだわる必要がないという姿勢を示した[1]。
第一審・控訴審の大阪高裁において共に死刑判決を受け、林真須美側は上告したが、2009年4月21日に最高裁判所が上告を棄却。判決訂正も5月18日付で棄却したため死刑が確定した。
2014年現在、林は大阪拘置所に収監されており、戦後日本では11人目の女性死刑囚である。再審請求中。2014年3月、林は支援者の釜ヶ崎地域合同労働組合委員長・北大阪合同労働組合執行委員長稲垣浩と養子縁組し稲垣姓となっている[2]。
裁判の反響
1審において被告人が完全黙秘を行い、メディアがこれについて批判的な報道を行ったため、1審の判決文において黙秘権の意義に関し、専らメディア向けとみられる一般的な判示がなされるなど、刑事裁判の在り方の点から見ても特異な事件となった。
最高裁では、犯行に使われたものと同一の特徴を持つヒ素が被告の自宅等から発見されたこと、被告人の頭髪から高濃度ヒ素が検出されたことなどから「被告が犯人であることは合理的な疑いを差し挟む余地がない程度に証明されている」とし、弁護側が主張した「被告人には動機がない」との主張に対しては、「動機が解明されていないことは、被告が犯人であるという認定を左右しない」と退けた[3]。
- ビデオ映像の証拠採用
- 裁判では、被告人が事件について語りテレビで放送された「ビデオ映像の証拠採用」についても争点となった。これは事案の重大性の中で黙秘を続ける被告人の事件に関する言葉が得られない中で、テレビ局の取材に対して被告人が事件に関するインタビューに応じているという事情があったため、真実解明という点で検察がテレビ局の被告に対するインタビュー映像を証拠申請をしていた。それに対し、報道機関からはビデオ映像を証拠採用されることは取材方法に対する権力の介入として反発し、弁護側も誘導による不正確な発言及び意図的な編集の可能性から証拠採用に反対した。
- 裁判所は数少ない被告人の事件に関する証言として、民放4社6番組から収録されたインタビュー映像計約13分間分を「言動が趣旨を異にすることなく再現されている」として供述録取書として採用した。また裁判所は「報道機関が報道し、国民の多くが知っている情報を、なぜ真実の追求を目的とする刑事裁判で証拠としてはならないのか、理解に苦しむ」と判決文で述べ、ビデオ映像採用に反発する報道機関に苦言を呈した。
被害者の症状
本事件で生存した63名について、和歌山県立医科大学皮膚科が行った調査がある[4]。たとえば、事件後二週間に被害者の多くに共通して見られた兆候は、次のとおりであった。
- 吐気 92%
- 嘔吐 94%
- 下痢 54%
- 低カリウム症 60%
- 白血球増加 60%
- QT延長症 51%
冤罪の可能性
当初より直接証拠がなく、状況証拠の積み重ねだけで有罪とされたが、不自然な点が多く識者から冤罪を指摘する声も多く上がっていた。
- 「批判を承知であえて言えば、本人が容疑を否認し、確たる証拠はない。そして動機もない。このような状況で死刑判決が確定してよいのだろうか」(田原総一朗)[5]。
- 「私のわだかまりも、この「状況証拠のみ」と「動機未解明」の2点にある。事件に、眞須美被告宅にあったヒ素が使われたことは間違いない。ただし、そのヒ素に足があったわけではあるまいし、勝手にカレー鍋に飛び込むわけがない。だれかが眞須美被告宅のヒ素をカレー鍋まで持って行ったことは確かなのだ。だが、果たしてそれは本当に眞須美被告なのか、どうしたって、わだかまりが残るのだ」(大谷昭宏)[6]。
- 「2審判決は「誠実に事実を語ったことなど1度もなかったはずの被告人が、突然真相を吐露し始めたなどとは到底考えられない」と言ったが、これは実質的に黙秘権侵害です」(小田幸児 - 林眞須美の1審、2審、上告審弁護人)[7]
- 裁判で林眞須美の犯行と断定される上での唯一の物証で決定的な証拠となっていた亜ヒ酸の鑑定において、犯行に使われたとみられる現場付近で見つかった紙コップに付着していたヒ素(亜ヒ酸)と、林邸の台所のプラスチック容器についていたヒ素、カレーに混入されたヒ素が東京理科大学の中井泉教授による鑑定の結果、組成が同一とされたが、のちに中井は依頼された鑑定の内容は、林邸のヒ素と紙コップのヒ素とカレーのヒ素の3つにどれだけの差違があるかを証明することではなく、3つの資料を含む林邸周辺にあったヒ素のすべてが同じ輸入業者経由で入ってきたものだったかどうかを調べることだと理解し、それを鑑定で確認したに過ぎなかった。このため有罪の決め手となった3つの資料の差違を詳細に分析はせず、3つの資料を含む10の資料のヒ素がすべて同じ起源であることを確認するための鑑定を行っていたにすぎなかった。当然ながら、眞須美が自宅にあったヒ素を紙コップでカレーに入れたことを裏付けるためには、3つのヒ素の起源が同じであることを証明しただけでは不十分であり、その3つがまったく同一でなければならない。弁護側の依頼で鑑定結果の再評価を行った京都大学大学院の河合潤教授により3つは同一ではないと評価された[8]。
その他
- 障害者郵便制度悪用事件で村木厚子を取調べ中に、担当検察官である國井弘樹は、村木に向かい「あの事件だって、本当に彼女がやったのか、実際のところは分からないですよね」といい、否認を続けることで冤罪で罪が重くなることを暗示し自白をせまった[9]。
- フジテレビ『ニュースJAPAN』で、安藤優子が事件の注目人物であった逮捕前の林眞須美にインタビューを試みている。逮捕前だったこともあり、注目人物であった林の名前をピー音を被せて名前を匿名化していたが、編集ミスで1か所だけピー音が入っていなかったためその部分だけ「林さんは…」という言葉がのって放送された。
- この事件では報道で「毒入りカレー」と言う文字が前面に出ていたためにカレーのイメージが悪くなり、食品会社はカレーのCMを自粛し、料理番組でもメニューをカレーにすることを自粛した。また、テレビアニメ『たこやきマントマン』と『浦安鉄筋家族』では、ストーリーにカレーが出る回が放送されなかった(これらの回は、前者は再放送時に初放送され、後者はVHSビデオ化の際に収録された)。
- ちょうど夏祭りの時期だったことから、犯人逮捕前は、各地の夏祭りなどで食事の提供が自粛されるなどの騒動に発展した。
- 林眞須美が逮捕前にミキハウスのスウェットシャツを着用していたニュース映像が大量に流れたため、ミキハウスのブランドイメージが打撃を受けたと言われる。その後判決公判などのニュースで映像を再使用する際はブランドロゴをぼかし処理で隠す配慮が見られるようになった。
- 事件後、林眞須美の自宅の塀に『人殺し』などと大量に落書きされ、ベルリンの壁のような状態になったが、自宅そのものは、2000年2月に放火によって全焼し解体され、跡地は公園になっている。
- 使用された毒物の組成を調べるために、SPring-8を使用した。
- この事件後、飲食物に毒物を混ぜるといった模倣犯の犯行が多数起きた。
- 自殺サイト殺人事件の犯人の実父は、この事件の捜査をしている。
- 2012年、再審請求中の林真須美は事件の裁判において虚偽の証言をしたとして、100万円の損害賠償を求めて夫を提訴した。その他、週刊朝日の調べにより、マスメディア関係者や事件の発生地の地元住民、生命保険会社に勤務していたときの同僚など、計50人ほどを相手に訴訟を起こしていることが判明。しかし、弁護士も立てていないため訴訟の遂行は難しいという。かつてメディアを相手に500件以上の訴訟を起こしたロス疑惑の三浦和義は生前、被告を支援しており、真須美に対しマスメディアを訴えることを勧め、手紙や面会で方法まで伝授していた。これに対し真須美も「三浦の兄やん、民事で訴えちゃるって、ええこと教えてくれた」と答えた[10]。
関連書籍
- 週刊文春特別取材班『林真須美の謎―ヒ素カレー・高額保険金詐取事件を追って』ネスコ、1998年12月、ISBN 4890369937
- 林眞須美『死刑判決は「シルエット・ロマンス」を聴きながら 林眞須美 家族との書簡集』講談社、2006年8月、ISBN 4062135132
- 三好万季『四人はなぜ死んだのか インターネットで追跡する「毒入りカレー事件」』(文藝春秋、1999年7月、ISBN 4163554300)
- 今西憲之「私たち夫婦は保険金詐欺のプロ。金にならんことはやらん。真犯人は別」(『週刊朝日』2006年11月3日号、朝日新聞社)
脚注
- ↑ 中日新聞2009年4月22日[1]
- ↑ カレー事件の林真須美死刑囚 支援集会「負けず過ごす」スポーツニッポン2014年7月19日
- ↑ 毒カレー事件、林真須美被告の死刑確定へ…最高裁が上告棄却読売新聞、archive.org 2013-02-27閲覧。
- ↑ K.Uede and F.Furukawa: Skin manifestations in acute arsenic poisoning from the Wakayama curry-poisoning incident. Brit J Dermatol 2003:149:757-762.
- ↑ 和歌山毒物カレー事件 死刑判決に異議あり (田原総一朗の「タハラ・インタラクティブ」)
- ↑ 大谷昭宏事務所「フラッシュアップ」状況証拠だけで裁けるのか
- ↑ <検証>和歌山カレー事件 動機も自白もなし「類似事実」で死刑にできるのか(週刊金曜日 2009年2月13日号)[2]
- ↑ ニュース・コメンタリー 「和歌山カレー事件の鑑定ミスはなぜ起きたか」(2013年08月31日)神保哲生[3]
- ↑ 村木厚子「私は負けない 郵便不正事件はこうして作られた」中央公論社 2013年10月25日
- ↑ 週刊朝日 2012年8月3日号 [4]
関連項目
外部リンク
- 最高裁判決全文
- 和歌山毒入りカレー事件(甲南大学刑事訴訟法教室)
- 林眞須美さんを支援する会
- 最高裁判決全文とそれに対する弁護団コメント、および判決訂正申立書全文(ウェブマガジン「魚の目」 2009年5月18日、投稿者: 安田好弘)