吉見広頼

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吉見 広頼(よしみ ひろより)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将石見国人吉見氏の当主で津和野城主。毛利氏家臣。父は吉見正頼、母は大内義興の娘。正室は毛利隆元の娘・津和野局、継室は内藤隆春の娘・河原殿、側室は光井勝良の娘。子に元頼広長、娘(河野通直室、後に末次元康室)、娘(益田広兼室)、娘(宍道元信室)、娘(天野元景室)、娘(毛利就頼室)。官位は大蔵大輔三河守。毛利氏よりその祖先・大江広元の1字を与えられて広頼と名乗る。

生涯

父が陶晴賢と対立し、天文23年(1554年)に籠城戦の末に一時降伏した際に人質となったが、天文24年(1555年)の厳島の戦いにより晴賢が敗死すると解放された。永禄6年(1563年)に初陣、出雲白鹿城攻めで本田豊前守を討ち取った。初陣後に毛利隆元の娘を娶ったが、元亀2年(1571年)に先立たれたため内藤隆春の娘を継室に迎えた。天正7年(1579年)に備後美作に出陣、天正10年(1582年)の備中高松城の戦いに出陣した。同年、父から家督を譲られる。

病弱で父ほどには信任を受けなかったが、毛利氏に忠実に仕え、天正14年(1586年)の九州征伐吉川元春小早川隆景らと共に九州に従軍、豊前香春岳城攻めで功績を上げ、豊臣秀吉から感状を受け取った。天正18年(1590年)の小田原征伐では毛利水軍に加わり三沢為虎熊谷元直益田元祥山内広通らと共に伊豆下田城を落とした。文禄・慶長の役には病気で出陣出来ず、嫡男の元頼が代わりに朝鮮に渡ったが、文禄3年(1594年)に元頼が津和野で病死、翌年に後妻も亡くなった。慶長2年(1597年)に次男の広長を朝鮮に渡海させ、翌3年(1598年)に広長に家督を譲り隠居した。

しかし、広長は毛利氏に反抗的で、慶長4年(1599年)に出奔したため当主に復帰、広長の帰参に腐心することになる。広長は慶長5年(1600年)に復帰したが、同年の関ヶ原の戦いで輝元は周防長門に減封、広頼も津和野を離れてに移り住んだ。慶長9年(1604年)に広長が再び出奔、娘達も先立つなど晩年は不遇であった。慶長17年(1612年)に吉川広家の次男を婿養子に迎え吉見政春と名乗らせ、翌18年(1613年)に死去。

法名は秀巌舸撤、墓所は山口県阿武郡大井串山の周鷹寺

広長は広頼の死後に戻り家督を継いだが、元和4年(1618年)に讒言で輝元に討たれ吉見氏は断絶した。政春も後に大野毛利家を興して毛利就頼と改名した。

参考文献

補注